赤い資本家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:36 UTC 版)
大学卒業後にハマーは医学の道に進まず、父親のつてで当時ロシア革命により成立したばかりのソビエト連邦と医薬品の輸出から貿易ビジネスを起業し、1920年代には旧ソビエト連邦に移り住む。やがて安価な鉛筆の生産事業とソ連対外輸出が大きなビジネスに発展するとソ連へのフォード車の輸出、トラクター組み立て工場の建設、穀物類のアメリカ向け輸出、また、父親からの紹介を受けて知り合ったソ連の指導者であるウラジーミル・レーニンの信頼を得て、アメリカやカナダとソ連との貿易を一手に担う事になった。 1924年にレーニンが死んだ後も、第二次世界大戦を経て冷戦時にタブー視されたアメリカの対ソ連貿易の中心的な存在となる。共産主義のシンボル的な存在であるレーニンの信頼を得た人物として、ソ連の影響下にある周辺衛星国などの、いわゆる東側諸国の指導者の信頼も受け、これらの国との貿易ビジネスも積極的に行い多大な収益を上げた。 他にも酒造業や美術品の売買から、石油 (後述) や原子力発電などのエネルギー産業に至るまで、様々な分野にその事業を広げることとなった。アメリカと共産圏の国々との国交改善を議会へ働きかけ、1982年には中ソ対立で進出が遅れた中華人民共和国の鄧小平とも会談し経済協力を話し合った。
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