買春の犯罪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/14 12:26 UTC 版)
買春の犯罪化(かいしゅんのはんざいか)は、北欧モデル(Nordic Model)[1]とも呼ばれる、売春の売り手は罪を問わない一方で、その顧客である買い手に刑罰を科す法的構想[2]。
概要
買春の犯罪化は、1998年にスウェーデン議会で可決された「女性の平和法案」(スウェーデン語:Kvinnofridslagen)が発祥とされる。この法案は、「売春を、これまで一般的であった道徳・品位・公共秩序に対する犯罪としてではなく、性における不平等の文脈に位置づけた」[3]。スウェーデンの女性権利団体の招待を受けたラディカル・フェミニストのキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、買い手と売り手の両方を処罰する、男女平等を前提とする法律は、女性の不平等と搾取の解決には効果的ではないと主張した。北欧モデルの裏には、「売春が選択した職業ではなく、強制された職業だという考えがある」。この考えが、セックスワーカーへの偏見を煽り、権利を妨げている原因であるという見解もある[4]。
買春の犯罪化の主な目的は、性的サービスの買い手を罰することによって性風俗産業を廃止することである[5][6]。買春の犯罪化は、セックスワーカーをより危険に晒すとして批判されている[7]。
買春の犯罪化は1999年にスウェーデンで初めて導入され、その後2009年にノルウェーで売春買法の一部として施行された[8]。2025年時点で、スウェーデン[9]、ノルウェー[10]、アイスランド[11]、カナダ[12]、フランス[13]、アイルランド[14]、イスラエル[15]、州レベルで北アイルランド[16]、メイン州[17]が買春の犯罪化の全部または一部を採用している。対照的に、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、フィンランド、オランダ、スイス、ルクセンブルク、ギリシャ、デンマーク、チェコ、オーストラリア、ニュージーランド、州レベルでイングランド、スコットランド、ウェールズ、ネバダ州は買春が犯罪化されていない。ベルギーは2022年に性労働を非犯罪化し、2024年に性労働者が正式に雇用主と契約を結べる法律を成立させた[18]。
グローバルネットワーク・オブ・セックスワーク・プロジェクトなどのセックスワーカーの権利擁護団体や、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アムネスティ・インターナショナルなどの国際人権団体は、買春の犯罪化を支持せず、セックスワークの非犯罪化を求めている[19][20]。
買春の犯罪化は「需要の終焉」[21]、「平等モデル」[22]、「新廃止主義」[23]、「スウェーデンモデル」[24]とも呼ばれることがある。
日本における動向
2025年5月16日、立憲民主党の吉田晴美は衆議院内閣委員会で、「売る方の女性は捕まるが買う方の男性は捕まらない」と誤って主張し、売春防止法では売春する行為も相手方となる行為も両方が処罰対象となっていないと指摘を受けた[25]。山井和則は、「男性を逮捕し、女性を保護するのが世界の流れ」と主張した。一方、『アゴラ』は2025年11月14日の記事で、国際的には売春規制を緩和し労働安全を確保する国が増えていると指摘している[26]。法務省大臣官房審議官の吉田雅之は、「男女間の性に関わることで機微に当たる部分もあり、国民の自由を不当に制限しないかの観点からの検討も十分に必要になる」と述べた[27]。
2025年6月11日、三原じゅん子は、売春の相手方の処罰について、「法務省としっかり協議する」と述べた[28]。8月、日本政府は男女共同参画基本計画の「基本的考え方」で買春行為について「売春防止法のさらなる見直しを含め、検討を行う」と記載した[29]。11月6日、塩村あやかは、参議院本会議で内閣総理大臣の高市早苗に対し、買春を罰する規制の導入を求めた。11日、緒方林太郎は高市に対し、売春の相手方を罰する可能性について検討するよう、法務大臣に指示を出すように高市に要請した。高市は平口洋に指示を出した[30]。
2025年11月11日、AV女優の月島さくらはXでのポストで一連の動きに反対を表明し、「ソープランドや料亭系の業態が存続できる可能性を極めて小さくし、業界全体に深刻な影響が出る」、「地下化を促進して女性にとって危険な層の男性が近付きやすくなる」と指摘した。月島のポストに反応したユーザーは、買春を禁止しようとする試みを「禁酒法の失敗」に例えた[30]。坂爪真吾は、「買春の犯罪化に効果があるか否かは実施される国や文化によって左右される部分が大きい」と述べ、日本は北欧モデルは効果がなく、問題解決に繋がらないと述べている[31]。
批判
買春の犯罪化は物議を醸しており、政治的立場の左右を問わず支持と反対の両方を受けている。買春の犯罪化の支持者には、全米女性機構[32]などのフェミニスト団体、女性人身売買反対連合[33]などの性的人身売買反対NGO、スペイン社会労働党[34]などの政党が含まれる。一方、アメリカ自由人権協会[35]、アムネスティ・インターナショナル[36]、ヒューマン・ライツ・ウォッチ[37]、国際連合エイズ合同計画[38]、世界保健機関[39]など、セックスワーカーの権利、支援、自由を擁護する多くの団体は買春の犯罪化に反対している。反対意見には、「買春側のみを処罰する案は合意の上での売春と強制売春を同列に扱っており、家父長主義的で人権軽視」、「片側だけを罪とするのは収賄・贈賄の関係と比べても不自然」[26]、「美人局が容易になる」とする見解がある[40]。
他の学者たちは、買春の犯罪化が実際に需要を減らすという証拠は不十分であり、売春を地下の闇市に追い込むだけだと主張している[41]。また、買春の犯罪化はセックスワーカーへの危害をほとんど軽減していないと主張する研究者もいる。2016年、アムネスティ・インターナショナルは100ページに及ぶ報告書を公表し、買春を犯罪化する法律によってセックスワーカーは警察による嫌がらせ、客からの暴力、差別、立ち退き、搾取のリスクに常に直面していると述べた[8]。セックスワーカーへの虐待や犯罪を秘密裏に報告できるサービスであるナショナル・アグリー・マグスが提供したデータによると、アイルランドが買春の犯罪化を採用した後、セックスワーカーに対する虐待や犯罪の報告が大幅に増加した。データによると、セックスワーカーに対する犯罪は90%増加し、暴力犯罪は92%増加した[42]。
参考文献
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関連項目
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