豪族共同体論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:08 UTC 版)
この豪族共同体は谷川との共同でなされた論である。 まず後漢代に豪族が中心になり、郷邑(村落)をまとめてある程度の秩序を保つ豪族共同体が存在した。しかし後漢末期になると豪族の中に露骨な領主化傾向、つまり中央の宦官政府と結託して郷邑や農民たちを支配下に置いて勢力を拡大しようとする者があり、これらの豪族同士の抗争により郷邑の秩序は崩壊の危機にあった。 それに対して豪族の中にもそのような民衆の要望を汲み取り、自らの領主化傾向を自己規定して郷邑の保護者であろうとする姿勢を保つ者がいた。これが清流勢力であり、彼らは互いの交友関係の中で郷論(郷里の輿論)を形成する。本来郷挙里選ではこの郷論に基づいて人物が推挙されるはずであるが、それを宦官政府は無視した。そこで清流勢力は三君八俊などの自分たちの中での人物評価を行い、宦官政府とは別に互いの間の人間関係網を作っていった。これを川勝は「郷論関節の重層構造」と呼んでいる。 これに対しての濁流勢力すなわち領主化傾向の強い豪族とそれに結びついた宦官政府からの弾圧が党錮の禁であった。これにより清流勢力の抵抗が頓挫した後、民衆は今度は太平道にその拠り所を求め、濁流勢力に対する民衆の抵抗運動が即ち黄巾の乱となって噴出した。黄巾の乱により打撃を受けた後漢政府は統治能力を失い、そのことにより清流勢力とその系譜を組む文人貴族によって秩序の再建がなされた。これが曹操政権である。
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