谷口嘉吉と津シネマフレンズとは? わかりやすく解説

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谷口嘉吉と津シネマ・フレンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 07:23 UTC 版)

津大門シネマ」の記事における「谷口嘉吉と津シネマ・フレンズ」の解説

1931年昭和6年3月3日津市生まれた谷口嘉吉は、三重県農林学校(現・三重県立久居農林高等学校卒業後に中日会館中日映画劇場入り20代企画部長に抜擢されるなどした後、中日会館役員務めた谷口はまだ会社員だった1984年昭和59年)に自主上映グループの津シネマ・フレンズを設立し年間7-8回は単館系作品上映した600席の津リージョンプラザお城ホールなどを会場とし、満席近く観客集めたこともある。1989年平成元年)の三重県には21館の従来型映画館があったが、1995年平成7年)に三重県初のシネマコンプレックスシネコン複合映画館)が桑名市開館してから、従来型映画館閉館相次いだ2000年平成12年)に7スクリーン有するワーナー・マイカル・シネマズ津が開館すると、津シネマ・フレンズの会員数目に見え減少し2001年平成13年)には解散危機にも陥った谷口同年の上映会を「最後の上映会」と覚悟していたが、「上映日だけは遠く嫁いだ妹に母を預けて来ている。この映画会だけが慰めだった」「津の文化がなくなる」という会員たちの言葉刺激受けて継続決意した文化庁名画フィルム民間公的機関貸し出す事業活用し2003年平成15年9月20日から9月23日には津東宝劇場跡地で「第1回津市名作映画フェスティバル」が開催され黒澤明監督作品マキノ雅弘監督作品などが上映された。この事業行政主導して活用することが多く民間主体は珍しいという。津東宝劇場支配人小林や津シネマ・フレンズ代表の谷口などが実行委員務めている。このイベントでの観客の反応上々だったことから、谷口常設映画館再開検討し始めた津大門シネマの開館直前2004年平成16年3月谷口健康診断前立腺がん診断されて「余命5年」と宣告された。しかし開館後には投薬治療続けながら支配人仕事をこなし、朝9時半から夜21時過ぎまで映画館立った。 津で私は育ち生きてきた。映画で津に恩返しをしたい。それが生きがいですから。 — 津大門シネマの開館決めた谷口嘉吉

※この「谷口嘉吉と津シネマ・フレンズ」の解説は、「津大門シネマ」の解説の一部です。
「谷口嘉吉と津シネマ・フレンズ」を含む「津大門シネマ」の記事については、「津大門シネマ」の概要を参照ください。

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