議員就任後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:11 UTC 版)
「アンドレイ・パルビイ」の記事における「議員就任後」の解説
2007年ウクライナ最高議会選挙にて、パルビイは我らのウクライナ(英語版)所属としてウクライナ最高議会の議員に選出された。その後、ウクライナのために!(英語版)の前身となる、「我らのウクライナ・人民自衛」連合(英語版)の代理組織に加入した。パルビイは我らのウクライナで活動し続け、政策評議会の会員となった。 2010年10月に、パルビイは当時ウクライナ前大統領であったヴィクトル・ユシチェンコが、ウクライナ民族主義者組織のリーダーであったステパーン・バンデーラへ、ウクライナ英雄を授与することを決定したことに対して否定的な反応を示した欧州議会に向け、再考するよう要請した。 2012年2月上旬、パルビイは「方向性の違い」を理由に我らのウクライナから脱退した。2012年ウクライナ最高議会選挙にて全ウクライナ連合「祖国」支援の無所属議員として再選した。 2013年12月から2014年2月までパルビイはユーロマイダンの指揮官を務め、抗議運動の中心人物を警備するボランティア警備隊の幹部として行動していた。その後、パルビイはウクライナ国家安全保障・国防会議(NSDC)書記に任命され、2014年6月16日に、当時のウクライナ大統領であったペトロ・ポロシェンコによって承認された。 NSDC書記時代、パルビイはウクライナ東部における親ロシア系の分離主義者(英語版)に対する「反テロ」作戦を支持した。 パルビイは2014年8月7日にNSDC書記を辞任した。パルビイは辞任の理由を明かさず、「戦時中に私が辞任することに対してコメントすることは容認されないと思われる。」「前線、特にボランティア大隊を支援し続けるつもりである。」と語った。ポロシェンコ大統領は同日、パルビイの解任を承認する判決に署名した。ロシア・トゥデイは、地元メディアがウクライナ南東部(英語版)での戦闘の停戦を宣言した後に辞任するよう求められたが、パルビイはこれを拒否したと報じた。 2014年9月にパルビイは設立メンバーとして、人民戦線党に加入し、2014年ウクライナ最高議会選挙(英語版)にて人民戦線党所属として最高議会議員に再選した。12月4日には最高議会副議長に選ばれた。 ヴォロディーミル・フロイスマンの辞任後、2016年4月14日に最高議会議長(英語版)に選出された。2017年には日本を公式訪問し、当時参議院外交防衛委員会委員長であった宇都隆史との会談において、日本とウクライナの合同軍事演習を提案した。 2019年5月15日、パルビイは議会改革局の設置に関する法令に署名し、議会の作業の指示に従って、15人を職員として起用する予定であると述べた。 2019年ウクライナ最高議会選挙(ウクライナ語版)にて、パルビイはペトロ・ポロシェンコ・ブロック所属議員として第2位となった。この党は票全体の内、8.1 %を得票し、23議席を獲得したため、パルビイは再選した。2019年8月29日に、パルビイは最高議会議長の職をドミトロ・ラズムコフ(英語版)に引き継いだ。
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