警察官としてのキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 13:56 UTC 版)
「フレデリック・アバーライン」の記事における「警察官としてのキャリア」の解説
アバーラインは実家を離れてロンドンに行くまでの間、時計職人(英語版)であった。1863年1月5日にロンドン警視庁に入庁したアバーラインは、警察証(英語版)番号43519を与えられてイズリントンの“N Division”に配属された。巡査(Constable)となったアバーラインはすぐに頭角を現し、2年後の1865年8月19日には巡査部長(Sergeant)に昇進している。この昇進に伴って、配属もハイゲートの“Y Division”に異動となった。1867年の1年間、彼は私服捜査官としてフェニアンの活動を捜査していた。1873年3月10日に警部補(Inspector)に昇進したアバーラインは、同月13日にホワイトチャペルの“H Division”に配属された。1878年4月8日には、“H Division”の犯罪捜査局(英語版)担当警部補に指名されている。 1887年2月26日にホワイトホールの“A Division”、同年11月19日にはスコットランドヤードの“CO Division”(“CO”は“Central Office”の頭字語)に転属となったアバーラインは、1888年2月9日に一等警部補(Inspector First-Class)に、1890年12月22日に警部(Chief Inspector)にそれぞれ昇進した。1888年8月31日にメアリー・アン・ニコルズ(英語版)が殺害されると、アバーラインは同地での勤務経験を見込まれてホワイトチャペルでの捜査に加えられた。彼は切り裂きジャック事件を捜査している多くの刑事を統轄した。後に警部となるウォルター・デュー(英語版)は、1888年当時ホワイトチャペルの“H Division”で巡査を務めており、アバーラインとも面識があった。デューは彼を外見も話し方も銀行の支配人のようだと評する一方、同地の土地鑑がある彼はホワイトチャペル殺人事件の捜査陣において最も重要な人物のひとりであったと述べている。 多くの容疑者たちの中で、アバーラインが最も有力視していたのはジョージ・チャップマン(英語版)であった。また、切り裂きジャック事件の別の可能性として、彼は犯人が女性ではないかという説も検討していた。 アバーラインはその後、1889年のクリーヴランド・ストリート・スキャンダルの捜査にも加わった。アバーライン警部は1892年2月8日に警察を退職し、モンテカルロで数か月にわたって私立探偵として活動した後、ピンカートン探偵社の欧州支局で12年間探偵を務めた。
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