角福戦争後
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1990年代になると田中・福田の両者が死去したこともあり、安竹協調路線はそれぞれの領袖が代替わりする中でも続いた。1998年竹下元首相の在職40年パーティでも当時の森喜朗幹事長が「願わくはもうひとり首相を育ててほしい」と自らを売り込むほどだった。 しかし、2001年に小泉純一郎が総理になると、自らが「経世会(現平成研究会)の支援を受けずに就任した初めての総理」と公言するとおり反経世会姿勢を進め、反発する野中広務らを抵抗勢力と位置づけ対立し、当事者を変えた遺恨試合として報道された。 また、小泉内閣の外交問題において田中真紀子外務大臣(田中角栄の長女)と福田康夫内閣官房長官(福田赳夫の長男)が対立していたことを角福戦争と形容することがあるが、双方とも派閥の領袖ではないことから派閥抗争とは別の次元の話である。 2007年9月、福田康夫が内閣総理大臣に就任すると、福田と、最大野党・民主党の党首小沢一郎の対決の構図が明確になった。これを、福田赳夫の長男である康夫と、田中角栄の「愛弟子」である小沢による角福戦争の再来として報道するマスコミもみられた。 2012年12月、第46回衆議院議員総選挙にて安倍晋太郎の息子安倍晋三率いる野党へと転落した自民党が大勝した。しかし角栄の「愛弟子」であった小沢が属した日本未来の党は大敗し小選挙区では当選したのは小沢と国民新党を離党して合流した亀井静香のみであった。また角栄の娘の田中眞紀子も落選した。これにより一部のマスコミでは角福戦争に決着がついたとの見方がされた。
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