観音院サロン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/06/04 08:25 UTC 版)
文学・芸術を愛し、奈良で文化人のサロンを形成したことで知られる。はじめ、1925年(大正14年)に奈良に移住した志賀直哉(小説家)を中心としたサロン(高畑サロン)が形成され、上司も出入りしていた。志賀が一ヶ月ほど上司の観音院に逗留したこともあったという。 1938年(昭和13年)、志賀が奈良を去ると、残されたサロンを上司が引き継ぐ形となった。杉本健吉(画家)、会津八一(歌人・早大教授)、入江泰吉(写真家)、須田剋太(洋画家)などが出入りした。東大寺観音院の住職だったので「観音院さん」として親しまれた。杉本健吉は一時観音院のなかにアトリエを設けることをゆるされ、東大寺や奈良の街角の風景などを描いた。 1945年(昭和20年)3月、新薬師寺に疎開していた水島弘一(彫刻家)が観音院の離れの書斎に仮寓。以降30数年に亘り交友を深める。後に(1971年(昭和46年))、七人会(入江泰吉、上司海雲、熊谷九寿、杉本健吉、鈴木光、須田剋太、水島弘一)を結成し、奈良の芸術文化に力を注いだ。
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