西遊記と演劇文化
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『西遊記』は、元明時代にすでに戯曲化されていたが、小説が完成されるまでの間に、その内容は吸収され、後世に伝承されるほどの傑作はなかった。しかし清代の西遊記劇になると情況は一変。逆に小説からエッセンスを吸収しつつ、小説の流布に便乗した形で西遊記劇が上演され、小説よりも幅広い人々の支持を獲得し、受容されたのである。完成の域に達した小説『西遊記』が文字の獄を免れ、風教と合致するという評価を得たことが、西遊記劇の流布に大きく影響した。 そんな清代の代表的な西遊記劇が、張照が撰した『昇平宝筏』240齣である。乾隆帝の御前で演じるために、小説『西遊記』を基礎としつつ、旧西遊記劇の要素を採り入れた作品で、熱河の避暑山荘に設けられた清音閣や、北京の円明園に設けられた三層の大舞台清音閣などで、国家事業として大々的に上演された。乾隆55年(1790年)の万寿節(皇帝の誕生日)には、円明園で10日間続けて上演したという。乾隆帝没後も歴代皇帝の前で頻繁に演じられたため、『昇平宝筏』には多くの異本が伝わる。 清の宮廷で演じられた西遊記劇は、ほかにも『西遊記』の名場面を抜き出した『進瓜記』や『江流記』『水簾洞』などの作品もあった。『進瓜記』は『西遊真詮』第11・12回、『江流記』は第9回、『水簾洞』は、大鬧天宮の前半部を演劇にした作品であり、『西遊記』人気と物語の普及具合を物語る。
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