西洋史
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「en:Regent」も参照 古代ギリシアではマケドニア王国において時折摂政が置かれ、しばしば摂政による君主の殺害や簒奪が起こった(アエロポス2世によるオレステスの殺害、ピリッポス2世によるアミュンタス4世の廃位)。アケメネス朝ペルシアを征服して大帝国を築いたマケドニア王アレクサンドロス3世(大王)の死後(紀元前323年)、王位は生まれたばかりの遺児アレクサンドロス4世と、大王の異母兄弟で知的障害者のピリッポス3世が共同で継承することになった。当然のことながら彼らに統治能力はなく、摂政が置かれることになった。 当初は有力貴族ペルディッカスが摂政に就任したが、彼に不満を持つ諸将は彼を滅ぼして重臣アンティパトロスが摂政に就任した(紀元前321年)。しかし、アンティパトロスの死後(紀元前319年)、息子のカッサンドロスとアンティパトロスから地位を譲られた老将ポリュペルコンとが摂政の地位を争い、ポリュペルコンを懐柔したカッサンドロスによってアレクサンドロス4世は殺害され、大王の血統は断絶した(紀元前309年)。 東ローマ帝国では、聖職者の長であるコンスタンティノポリス総主教が摂政役を務めたこともある。 また、戦間期のハンガリー王国におけるホルティ・ミクローシュや20世紀中葉のスペインにおけるフランシスコ・フランコのように、君主が不在のまま摂政のみが置かれることもある。
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西洋史
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西洋史においては、古代ギリシアにおけるエーゲ文明の成立から西ローマ帝国の崩壊(476年)まで。このほか、ローマ帝国の3世紀の危機から7世紀までを「古代末期」とする時代区分もある。
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