西本町 (館林市)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 西本町 (館林市)の意味・解説 

西本町 (館林市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/12 11:53 UTC 版)

日本 > 群馬県 > 館林市 > 西本町 (館林市)
西本町

愛宕神社
西本町
西本町の位置
北緯36度15分13.01秒 東経139度31分37.73秒 / 北緯36.2536139度 東経139.5271472度 / 36.2536139; 139.5271472
日本
都道府県 群馬県
市町村 館林市
面積
 • 合計 0.15 km2
人口
2025年令和7年)1月31日現在)[1]
 • 合計 686人
 • 密度 4,600人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
374-0065[2]
市外局番 0276[3]
ナンバープレート 群馬

西本町(にしほんちょう)は、群馬県館林市町名郵便番号は374-0065[2]。面積は0.15km2[4]

地理

東は本町一丁目、南は仲町、北は代官町、西は大街道一丁目に接している[4]

歴史

1969年昭和44年)11月1日に第二次住居表示が実施され、大字館林字鞘町塚場町木挽町と、代官町の一部が合併し西本町となった[5]

旧館林城下町名の歴史

鞘町 (さやちょう)

師の居住地域であったことが町名の由来[5]

延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[5]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が32軒、男63人、女47人、馬1頭であった[5]。「館林町先規之次第覚書」によると、延宝9年(1771年)には町内に研屋4人、鞘師3人、金具屋3人、柄巻屋1人が住み、同年の職役は120人と定められていた[6]宝永7年(1710年)頃編集とみなされている「万聞書(よろずききがき、山田文書)」では、家屋36軒中、山伏1軒、研屋2軒、柄巻屋1軒、鞘師3軒であったという[7]弘化3年(1846年)の「町方引渡帳(『館林藩史料』)」では、町の長さ263m程度(225余)、家数25軒、その他に町役人無役屋敷が1軒あった[7]嘉永元年(1848年)の『館林城下絵図』では、家数は34軒[7]1889年明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域約3町9反(約38,676m2[7]

塚場町 (つかばちょう)

館林城下の北西端付近に位置し、日光脇往還から太田口門[注 1]を結ぶ道の両側に開けていた[7]。地名の起源は不詳[7]

延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[7]。『館林記』に残る記録では、板葺萱葺交じりの家が106軒、男260人、女204人、馬24頭であったとされ、当時の館林城下で最大の町[7]であった。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳」では、町の長さ596m程度(5町28間余)、家数101軒、その他に町役屋敷・定使無役屋敷が各1軒あった[7]嘉永元年(1848年)の『館林城下絵図』では、家数は109軒[7]で、うち3軒は御用地であった[7]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域約4町7反(約46,609m2[8]

木挽町 (こびきちょう)

城下町西端にあった職人町で、寛文元年(1661年)、徳川綱吉の館林入部に伴い、城下町が西方に拡張された際に新設された[9]

延宝2年(1764年)の「館林城下町図」に町名が見える[9]。『館林記』に残る記録では、萱葺家が24軒、男42人、女27人であった[9]。「館林町先規之次第覚書」によると、延宝9年(1771年)には町内に木挽職20軒が居住していた[9]。弘化3年(1846年)の「町方引渡帳」では、町の長さ362m程度(3町19間余)、家数19軒[9]。1889年(明治22年)の『邑楽郡町村誌材料』では町域約4町4反(約43,634m2[9]

人口

2025年(令和7年)1月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

町丁 世帯数 人口
西本町 364世帯 686人

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10][11]

番地 小学校 中学校
全域 館林市立第一小学校 館林市立第一中学校

行政

  • 西本町北区ふれあい会館
  • 西本町南会館

経済

店・企業

地域

健康

医療機関
  • 館林医院
  • 後藤内科医院

相談

  • 浅見哲雄税理士事務所
  • 浦野隆司法書士事務所

施設

記念館
企業博物館
宗教

名所・旧跡

  • 太田口御門跡
  • 青石地蔵板碑
  • 館林城鐘

交通

鉄道

当町に鉄道駅はない。隣接する本町に東武鉄道館林駅がある。

バス

道路

町内を北西から東南に群馬県道2号前橋館林線が貫いている。北から群馬県道223号寺岡館林線が、県道2号との交差点で終端する。

出身・ゆかりのある人物

脚注

注釈

  1. ^ 江戸時代初期は、「道六神(どうろくじん)門」あるいは「足利口門」と呼ばれていた。

出典

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  西本町 (館林市)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西本町 (館林市)」の関連用語

西本町 (館林市)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西本町 (館林市)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの西本町 (館林市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS