西の岡三十三所とは? わかりやすく解説

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西の岡三十三所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/27 14:21 UTC 版)

京都洛西観音霊場」の記事における「西の岡三十三所」の解説

この霊場は、江戸時代信仰集めた西の岡三十三所(にしのおかさんじゅうさんしょ)を前身とする。 西の岡とは、現在の京都市西京区南東部向日市西部境界をなす西ノ岡丘陵(向日丘陵長岡丘陵とも)のことで、さらにその周辺地域をも指した。この地域京都の西に位置することから西方極楽浄土見立てられ古くから阿弥陀如来やその脇侍である観世音菩薩への信仰盛んだった。特に、世情安定し庶民の生活にも余裕生じた江戸時代には、西の岡各地でも観音講隣近所といった小規模な地縁紐帯とする観音信仰結社)が組まれ西国三十三所への巡礼盛んに行われた。 しかし、現在のように交通機関なども発達していなかった当時西国三十三所への巡礼には時間費用もかかり、希望者すべてが巡礼行けるわけではなかった。あくまでも講の構成員資金出し合って代表者送り出すというものであり、代表者になれるのは成年達した各家の長男限られるなど、誰もが気軽に巡礼出られる訳ではなかったのである。そこで誰でも観音巡礼出来るように、地域内の観音祀る寺院をまとめ西国三十三所模した「うつし霊場」が置かれた。これが西の岡三十三所である。 この西の岡三十三所がいつ開創されたのかは、室町時代とも江戸時代とも言われているが 史料残されていないためはっきりしない。しかし20番称讃寺には文政十年1827年)、21番長福寺には嘉永七年1854年)、25阿弥陀寺には弘化二年(1845年)の日付奉納額現存しており、遅くとも江戸時代後期には盛んに巡礼が行われていた事がわかる。 しかし明治維新以後神仏分離廃仏毀釈影響もあって廃寺となる札所もあり、西の岡三十三所への巡礼徐々に忘れられていった14番勝龍寺には1973年昭和四十八年九月吉日)の日付奉納額現存しており、戦後細々巡礼が行われてはいたようであるが、その頃までにはすでに「知る人ぞ知る存在となっていた。

※この「西の岡三十三所」の解説は、「京都洛西観音霊場」の解説の一部です。
「西の岡三十三所」を含む「京都洛西観音霊場」の記事については、「京都洛西観音霊場」の概要を参照ください。

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