襲撃後のバスティーユ
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「バスティーユ広場」の記事における「襲撃後のバスティーユ」の解説
1792年、バスティーユ牢獄は撤去されて、新しく自由を記念するオブジェが作られることとなった。 1808年、パリの都市化を推し進めていたナポレオン・ボナパルトは、当初ここに象の形をした記念碑を建設することを計画した。この象はスペイン軍から奪った大砲から取られた銅が使われる予定で高さは24m、象の足のうちの一本の内部に作られた階段によって像の上までいけるように設計されていたが、石膏のモデルまでは作られ広場に置かれたものの(「バスティーユの象」)、最終的に広場に銅像が建つことはなかった。 1833年に現在の7月革命記念碑 (fr:Colonne de Juillet) の建設を決定したのは、ルイ・フィリップである。後に「バスティーユの象」は『レ・ミゼラブル』(1862年)の登場人物ガヴローシュらの住処として有名になるが、1846年、土台の一部を残し7月革命記念碑に置き換わり、撤去された。 1855年に、牢獄の跡地にバスティーユ駅が建設された。その後1969年に廃止され、路線は地下化されて現在のRER A線となった。駅舎は解体され、そこから延びる線路は芸術の高架橋(フランス語版)と呼ばれる緑道となった。駅舎跡地にはオペラ・バスティーユが建設され、革命200周年記念の1989年7月14日に落成された。
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