製鉄の操業年代について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 16:21 UTC 版)
「北牧野製鉄遺跡」の記事における「製鉄の操業年代について」の解説
高島市マキノ町の製鉄遺跡は、北牧野製鉄遺跡群(北牧野A・B・C・D・E遺跡)のほかに、海津天神社裏山A遺跡、海津B遺跡、小荒路遺跡、白谷遺跡、大谷川遺跡などがあり、木炭窒としてクチナシ谷遺跡が挙げられる。北牧野A遺跡のみ出土須恵器から8世紀代の操業年代が与えられているが、他は不明である。 文献には『続日本紀』天平宝字6年(762年)二月二十五日条には、「大師の藤原恵美押勝に近江国浅井(浅井郡)・高嶋(高島郡)二郡の鉄穴を各一処賜う。」とあり、文献に初めて高島市内の製鉄に関しての記載が登場する。文献記録では先述のほかに、『日本書紀』天智天皇九年(670年)、『続日本紀』大宝三年(703年)二月条、養老六年(722年)、天平十四年(742年)十二月条があり、7世紀後半から8世紀にかけて滋賀県内で製鉄が盛んに行われていたと記録されている。このことは近年の発掘調査でも裏付けられており、マキノ町内の製鉄遺跡の操業時期は当該期に比定できよう。ただ、製鉄操業時期の初源をどこまで遡り得るかを考える時、近接する古墳群の存在は無視できない。 同じく高島市の今津町大供の甲塚古墳群の分布する丘陵には製鉄遺跡である東谷遺跡が存在しており、両者の密接な関係が想定されている。甲塚古墳群11号墳では、鉄滓が採取され、それに伴って採集された須恵器の年代観から、5世紀末段階の鉄生産の可能性が指摘されている。ただし製錬滓ではなく、「鍛冶滓」であるとの指摘もあり検討を要する。 マキノ町内の製鉄遺跡についても、古墳群が近接して立地していることから、 同様の関係が想定でき、製鉄操業年代が古墳時代後期まで遡りうる可能性は否定できない。近接する薬師堂遺跡の掘立柱建物群が、古墳時代後期に製鉄に従事した人々の集落の可能性もある。
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