蘇民神社と疱瘡神社本殿の南側に長屋式で建つ。一説では、備後國風土記・逸文の舞台「疫隈國社」とは、素盞嗚神社の本殿のことではなく、摂社であるここが「疫隈國社」であるとされる。因みに当社の敷地は、武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟将来(巨旦将来)の屋敷跡といわれる。戸手天満宮境内の北西、広場に面して瓦葺き入母屋造りの仏式の建物。元々は当社の「本地堂」で、神仏習合時期の別当寺・早苗山天竜院天王寺の本堂であった。江戸時代中期の再建とされ、祇園社(素盞鳴命奉祀神社)に残っているのは全国でも唯一である。明治維新後の廃仏毀釈の際、祭神に菅原道真を奉祀して守り通された。その後時を経て、屋根は抜け天井は朽ちて甚だ老朽化が進み倒壊が危惧されたが、平成10年(1998年)広島大学の三浦教授監修のもと修復がなされ現代に蘇った(平成の大修理)。ここに祀られていた複数の仏像は明治期に周辺の真言寺院に散逸したが、後の調査で、本尊・聖観世音菩薩は、福山市内の某真言寺院に現存していることが判明した。素佐能表神社
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「素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)」の記事における「蘇民神社と疱瘡神社本殿の南側に長屋式で建つ。一説では、備後國風土記・逸文の舞台「疫隈國社」とは、素盞嗚神社の本殿のことではなく、摂社であるここが「疫隈國社」であるとされる。因みに当社の敷地は、武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟将来(巨旦将来)の屋敷跡といわれる。戸手天満宮境内の北西、広場に面して瓦葺き入母屋造りの仏式の建物。元々は当社の「本地堂」で、神仏習合時期の別当寺・早苗山天竜院天王寺の本堂であった。江戸時代中期の再建とされ、祇園社(素盞鳴命奉祀神社)に残っているのは全国でも唯一である。明治維新後の廃仏毀釈の際、祭神に菅原道真を奉祀して守り通された。その後時を経て、屋根は抜け天井は朽ちて甚だ老朽化が進み倒壊が危惧されたが、平成10年(1998年)広島大学の三浦教授監修のもと修復がなされ現代に蘇った(平成の大修理)。ここに祀られていた複数の仏像は明治期に周辺の真言寺院に散逸したが、後の調査で、本尊・聖観世音菩薩は、福山市内の某真言寺院に現存していることが判明した。素佐能表神社」の解説
本殿から大鳥居を抜けて延長線上の5kmほど先(福山市駅家町法成寺)に鎮座。長享2年(1488年)、当地の村民が疫病が大流行した際に、新市の素盞嗚神社に日参し、疫病が収まったので、素盞嗚神社の分霊を勧請し祀ったと社伝にある。
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「蘇民神社と疱瘡神社本殿の南側に長屋式で建つ。一説では、備後國風土記・逸文の舞台「疫隈國社」とは、素盞嗚神社の本殿のことではなく、摂社であるここが「疫隈國社」であるとされる。因みに当社の敷地は、武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟将来(巨旦将来)の屋敷跡といわれる。戸手天満宮境内の北西、広場に面して瓦葺き入母屋造りの仏式の建物。元々は当社の「本地堂」で、神仏習合時期の別当寺・早苗山天竜院天王寺の本堂であった。江戸時代中期の再建とされ、祇園社(素盞鳴命奉祀神社)に残っているのは全国でも唯一である。明治維新後の廃仏毀釈の際、祭神に菅原道真を奉祀して守り通された。その後時を経て、屋根は抜け天井は朽ちて甚だ老朽化が進み倒壊が危惧されたが、平成10年(1998年)広島大学の三浦教授監修のもと修復がなされ現代に蘇った(平成の大修理)。ここに祀られていた複数の仏像は明治期に周辺の真言寺院に散逸したが、後の調査で、本尊・聖観世音菩薩は、福山市内の某真言寺院に現存していることが判明した。素佐能表神社」を含む「素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)」の記事については、「素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)」の概要を参照ください。
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