苗族の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 08:48 UTC 版)
同年、元軍は苗族将軍の楊完者(ヤン・オルジョイ)に兵10万を与えて徽州の奪還を試みる。徽州の守備兵は必ずしも強くなかったが、鄧愈はこれを激励し、何とか持ちこたえた。その間に味方の胡大海の軍が到着し、元軍を挟撃して破った。鄧愈はさらに追撃し、休寧(安徽省黄山市休寧県)・婺源(江西省上饒市婺源県)を奪って兵3000を獲得し、さらに高河にある敵の基地を落とした。 さらに1358年、李文忠・胡大海と共に、遂安を攻略し、長槍帥の余子貞を破った。さらに北上して淳安・建徳を奪った。楊完者は反撃を試みるが、かえって破れ、李副枢が捕虜となり、渓洞で兵30000が降伏した。その翌月、烏竜嶺で楊完者の主軍を破った。その後は朱元璋の下に戻され、再び枢密院の職を勤めた。なお、楊完者が率いる苗族の軍は素行が悪かったため、その後、元朝に依頼された張士誠に滅ぼされ、残った苗族の多くは朱元璋軍に組み込まれたという。 1360年、西の大軍閥の陳友諒と朱元璋軍の決戦が始まる。この戦いの中で、陳友諒配下で撫州を守る鄧克明が朱元璋に降伏を申し出る。鄧愈は、この降伏が敵の策略であるという情報を掴み、夜を徹して200里(約100km)を駆け走り、夜明けに到達してこれを報告し、鄧克明は逃走した。鄧愈は自軍に軍紀を厳守するよう命じ、撫州を平定した。さらに陳友諒の部下で、丞相を務める胡廷瑞が降伏し、竜興路(江西省南昌市)が朱元璋軍の支配下となり、名を洪都府と改められた。鄧愈は江西行省参政守に任ぜられ、降伏した祝宗・康泰を部下とした。 ところが祝宗・康泰はその待遇に不満を持ち、徐達と共に武昌(湖北省鄂州市鄂城区)攻略に加わるものの、反乱を起こした(祝宗・康泰もまた、苗族だったらしい)。彼らは船で女児港から取って返し、夜に洪都府を攻撃した。鄧愈は側近数十騎を引きつれ逃走するが、そのほとんどが討たれてしまい、最後には養子の馬を譲り受け、命からがら応天府に逃げ込んだ。朱元璋はすぐに徐達に軍を返すように命じ、鄧愈・朱文正と共にこれを鎮圧させた。
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