苗木勘太郎同一人物説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 06:16 UTC 版)
苗木勘太郎の書状は残っていないが、以下の様に軍記物に登場する。 苗木勘太郎は、永禄3年(1560年)織田信長の要請で五百余騎を引きつれて5月13日に自領を出立し、5月15日に清洲城に入り、桶狭間の戦いに参戦、美濃国で2万石を受領したとされる。また、信長の妹(苗木勘太郎室)の婿であり、その娘(龍勝院)は幼少の頃から信長のもとで育てられ、永禄8年(1565年)11月13日に武田勝頼に嫁いだとされる。そして、元亀元年(1570年)には、武田氏との上村合戦に織田方として参戦した。 苗木勘太郎は、苗木城主の通称であり、指し示す人物は歴代3名の城主が候補となる。『遠山来由記』は、織田信秀の代から織田氏と縁が深くその支援で所領を広げた人物である事から遠山友勝とする説をとる。また、『苗木伝記』では遠山友忠を、『遠山家系図』などでは遠山直廉を苗木勘太郎とする説をとる。 「遠山友忠#異説」および「遠山直廉#直廉の別名」も参照
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