芦田姓の武家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:03 UTC 版)
東信で芦田を名乗った武将は、滋野氏系と依田氏系に分かれる。 滋野氏系の芦田氏は鎌倉時代から佐久郡芦田に館を構えており、その系譜は、滋野滋氏王ー蔵人敦重ー又三郎為重ー法師僧光ー盛弘ー芦田七郎盛忠ー備前守朝ー下野守氏久となる。 永享元年(1429年)、室町幕府六代将軍に足利義政が就任すると、鎌倉公方足利持氏はこれに反発し、関東管領の上杉憲具の諌めにも耳を貸さずに、幕府に対する決戦に備えるため、鎌倉に味方する東国武将に下知状をもって出兵を促した。滋野系芦田氏の下野守もこれに呼応し、関東出兵のため小県郡芝生田まで兵を進めた。これに対抗したのが、信濃守護小笠原政康の祖からの分流である、大井越前守持光だった。この噂を耳にした将軍足利義政は、御教書を発した。 「大井越前守と芦田下野守不快の事、然るべからざる候。早々和睦すべきの旨仰せ出され候。よって東国の面々御教書なされ候おわんぬ。若し尚事行かずんば、美濃・越後の御勢差し遣わさるべきの由、沙汰申すべく候の段堅く仰せ含められるべく候以上 二月十七日 永享七年 小笠原殿 足利義政 花押」 滋野系芦田氏は、将軍義政の調停案を一蹴し、芝生田氏の協力を得て、芝生田城、別府城の両城に立てこもり、幕府が後ろ盾となった、信濃守護小笠原政康、越後守護長尾邦景、大井持光の連合軍を迎え撃つ体制を取った。小笠原政康は、依田右衛門尉経光と、高井郡井上一族の米持次郎光遠をもって、滋野芦田氏を攻略し滅亡させた。 依田右衛門尉経光の子、備前守光徳から芦田姓を称するようになり、信蕃の父下野守信守まで、嫡流だけが「芦田」、傍系は依田姓を名乗ったが、信蕃の代から依田姓を使用した。
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