羽柴秀勝への再嫁とは? わかりやすく解説

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羽柴秀勝への再嫁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:58 UTC 版)

崇源院」の記事における「羽柴秀勝への再嫁」の解説

その後秀吉実の甥で養子丹波国亀山城主(京都府亀岡市)・豊臣秀勝元へ嫁ぐ。秀勝への再嫁時期不明である。『兼見卿記』の天正13年10月20日条によると、同年10月18日頃に秀勝に嫁いだ記されているが、通説はこれに否定的である。それは織田信長の子秀吉養子になっていた羽柴秀勝天正13年12月没していて、その後継者とされる豊臣秀勝羽柴秀勝存命中に「秀勝」を名乗り出ることはない、と考えられているためである。そのため、秀勝が秀吉養子となった天正14年1586年以降、または文禄元年1592年)、もしくは天正19年1591年3月から文禄元年1592年2月24日までの間と考えられている。しかし、豊臣秀勝天正13年9月時点で既に「秀勝」を名乗っていたことを示す文書複数残されており、2人の「秀勝」が併存していた時期があるとして、天正13年10月婚姻間違いないとする説も出されている。なお、この頃には茶々秀吉側室、初は京極高次正室となっていると考えられている。 秀勝は秀吉統一事業に従って九州征伐小田原征伐従軍し戦功挙げた天正18年1590年11月には徳川家康関東移封に伴い徳川家旧領であった甲斐信濃与えられている。翌天正19年1591年)には岐阜転封となっているが、江は京都聚楽第の秀勝の屋敷居住し甲府岐阜へは赴いていないと考えられている。秀勝は文禄元年1592年)に秀吉朝鮮出兵文禄の役)に従軍し、在陣中同年9月朝鮮国巨済島において病死している。秀勝と江の間には娘の完子(幼名不詳)がおり、生年不詳であるが、文禄元年翌年中であると考えられている。完子は茶々猶子として引き取られ同格摂関家である九条家嫁いでいる。

※この「羽柴秀勝への再嫁」の解説は、「崇源院」の解説の一部です。
「羽柴秀勝への再嫁」を含む「崇源院」の記事については、「崇源院」の概要を参照ください。

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