練り行事の発祥となった昔話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 04:30 UTC 版)
「天ヶ須賀 (四日市市)」の記事における「練り行事の発祥となった昔話」の解説
江戸時代初期に伊勢国の北勢地方に疫病が大流行して、易者に占ってもらうと、朝明郡天ヶ須賀の住民であるこの地方の村民はない日の生活の追われて先祖供養を怠り、この疫病を鎮めるには若い元気な娘を生きたまま火祭りにしなければならなかった。この話を聞いた天ヶ須賀村の長老は早速天ヶ須賀村民を集結させて相談したが話がまとまらず、疫病はますます広がった。この時に、天ヶ須賀村の18歳になるしまとこまの2人の娘が、人柱に立つことを申し出て、火祭りに処されて、それによって天ヶ須賀村にあれほど流行していた疫病が止まったと云う昔話でしなとこまと火祭りに逸話である。天ヶ須賀の村人たちは、富田3丁目の長興寺まで送る道すがら、火祭りにされた2人の娘のしなとこまの心中を思い、鉦や太鼓ではやしたて、できるだけ賑やかに道中を練り歩いた。伝承では盆の練りの行事はこれが変化したものである。戦前の大日本帝国時代は三重郡富洲原町で、鉦を太鼓による練りが天ヶ須賀住吉神社に奉納されると、数10束の藁に火をつけて、12本の竹串の先につけた藁人形を掛け声とともに燃やした。 以下の内容の掛け声を歌った。 『エンエトゥ エンエトゥ しなやか こまやか しなやか こまやか 火はないか 火はないか 火はあるぞ』 燃えている期間に、裸の数10人の天ヶ須賀地区の若者が走り廻り、火のついた竹串の先の藁人形が空高くて舞い上がり、勇敢な行事で伝統がある祭事であった。天ヶ須賀の練り行事も祭事開催初期は、この桑名藩領の朝明郡所属の富田六郷付近の各村の(天ヶ須賀村・富田一色村・松原村・東富田村・西富田村・蒔田村)から長興寺まで練り歩いた他が、近代になって歴史の流れで練りの意味や位置づけも変化して、各氏神で祭事が行われて、天ヶ須賀村の祭事の由来や行事の内容も変化した。
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