締結に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 03:26 UTC 版)
1917年(大正6年)のロシア革命で世界革命を掲げるボリシェヴィキのソビエト政権がロシアの中央政権を奪取すると、当初のソビエト政権が掲げる革命輸出に対する予防戦争をイギリス・フランス・イタリアなどの欧米列強諸国が企図する。日本もまた革命輸出阻止の意図を共有するものであったが、それだけではなく北満州からシベリアへの勢力圏拡大の意図もあってロシア内戦干渉への参加を決定、1918年(大正7年)初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊をウラジオストクに派遣、同年夏にはシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目としてシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本は交戦状態に陥っていた。1922年(大正11年)、日本軍は撤兵を声明し、9月に日ソの間でもたれた長春会議は決裂するものの、10月までに日本軍は最終的な撤兵を完了する。しかし、依然として北樺太には尼港事件をきっかけとして日本のサガレン州派遣軍が保障占領していた。 長春会議決裂と日本軍撤兵にともなって、ソ連は極東地区における緩衝国として維持していた極東共和国を廃止して併合し、1923年(大正12年)より日ソ国交正常化のための直接交渉に入る。中国の北京で行われた交渉は、同年の予備交渉を経て1924年(大正13年)5月から日本側代表芳沢謙吉とソ連側代表レフ・カラハンの間での正式交渉に入り、1925年(大正14年)1月20日に至って北京で日ソ基本条約が締結された。
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