締結に至る背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:44 UTC 版)
「石井・ランシング協定」の記事における「締結に至る背景」の解説
第一次世界大戦のなか、決して激戦地とは言えない東アジア・南洋諸島において参戦した日本が「連合国」として中国大陸に対して権益を拡大しようとすることは英仏米の連合国は快く思わず、その牽制としてアメリカ合衆国国務長官ウィリアム・ジェニングス・ブライアンが「ブライアン・ノート」を発表することとなった。 また、日本は満州権益をその利権を共有してきたロシアとの四次にわたる日露協約による日露の協調を基礎に確保していたが、1917年発生した二月革命及び十月革命によってその変更を迫られた。そうした事情もあり、日本は満州権益を確保するためにロシアに代わりアメリカとの協調を模索していた。 そこで日本は融和策としてヨーロッパの連合国に対してはロンドン宣言に参加することや、地中海への海軍派遣などを提案し、アメリカに対しては中国大陸全土に対してはそれまでにアメリカが表明していた中国政策の一般原則を認めつつ、満蒙に日本の権益を認めさせようとする妥協策を提案した。この権益とは「経済的」権益に限るのか「政治的」権益を認めるのかについては曖昧であった。
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