絢爛にして放埒なるパリでの生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 14:39 UTC 版)
「コーラ・パール」の記事における「絢爛にして放埒なるパリでの生活」の解説
熟練技術者の日当が2~4フラン程度であった当時において、コーラは一晩で5,000フランを稼ぐ娼婦となり、生活はどんどん派手になっていった。この莫大な稼ぎを得るため、コーラは蘭柄の絨毯の上でヌードダンスを披露したり(後述)、シャンパンで満たされた銀の浴槽で大勢の客の前で入浴することも厭わなかった。コーラの英語訛りのフランス語や、明け透けな性格も、多くの男に受け入れられているように見えた。ド・グラモン・カドゥルース公爵は、(当時パリの最高級レストランであった)フレール・プロヴァンソーがもしダイヤモンド入りのオムレツをメニューで出したら、彼女は毎晩通うだろう」と評した。また、ある男がコーラにマロングラッセ一箱をプレゼントしたところ、そのマロングラッセの包み紙がすべて1,000フラン紙幣だったというエピソードも残る。またアイルランドの大地主ジェイムズ・ウェルプリーが貢いだ全財産200万フランをコーラはわずか8週間で浪費してしまったという。 彼女のファッションは、第二帝政期の上流貴婦人らに影響を与え、ドレス・髪型・乗馬服など、彼女を追従する女性も多かったという。ギュスターヴ・クローダンによれば、コーラ・パールは「フランスに近代的なメイクを紹介した最初の女性」であり、ロンドンから取り寄せた化粧品を惜しげもなく使った。まつげや目の周りにペイントを加えるアイシャドー、TPOによる髪の毛の染め分け、白い肌を至上の価値とする時代にも関わらず肌を小麦色に焼くことなど、当時の貴婦人らの常識に反する(そして現在に通ずる)斬新なメイクは、下品・やりすぎという強い批判を受けると同時に、大きなセンセーションも巻き起こしたという。彼女と同じように他国から来た娼婦が、懸命にパリジェンヌになろうと努力したのに対し、あくまで自然体に振る舞ったコーラは、普通の美女に食傷していたパリの紳士の心を捕らえた。ピエール・ド・ラノーは『第二帝政下のパリの愛』で「コーラ・パールはその頃の高級娼婦とは少しも似ていなかった。娼婦が身につけるべき完璧な口調や矯正を軽蔑し、あるがままに振る舞ったのである」と述べている。英語なまりのフランス語も、男性達には魅力的に感じられ「気兼ねしないマドモワゼル(Mademoiselle Sans Gêne)」というあだ名がつけられた。
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