納富氏の子孫「納富鍋島家」も誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 17:40 UTC 版)
「納富信景」の記事における「納富氏の子孫「納富鍋島家」も誕生」の解説
肥前国小城一帯に留まった納富氏の一部は、肥前佐賀藩(藩主は鍋島氏)の上級家臣団として着座(武士である家臣の間に上下の序列を付けるために家格という序列制度)の被官「納富鍋島家」として続いた。佐賀藩で家老をつとめた 納富鍋島家 の 鍋島市佑(夏雲・保脩/1802~82)は、長年にわたり、藩主家の家政機関の長である御年寄役を務め、藩主直属の最高合議機関である御仕組所での会議にも参加し、10代佐賀藩主鍋島直正を支えた。が、納富六郎左衛門など武士から儒学の学者に転身する者や地主などに転身する者もいた。 納富氏の子孫である、江戸時代末期の天保15年(1844年)に生まれた納富介次郎は、明治政府の万国博覧会出展に携わる他、長州の高杉晋作らと共に使節団として上海に約2ヶ月間滞在した。この納富介次郎は、現在の石川県立工業高等学校、富山県立高岡工芸高等学校、香川県立高松工芸高等学校および佐賀県立有田工業高等学校をそれぞれ創立し、校長を務めた。また、北浜銀行取締役兼支配人で福岡銀行取締役であった納富陳平(陣平)は、衆議院議員を務めた。納富信留は、2016年から東京大学大学院教授を務めている。
※この「納富氏の子孫「納富鍋島家」も誕生」の解説は、「納富信景」の解説の一部です。
「納富氏の子孫「納富鍋島家」も誕生」を含む「納富信景」の記事については、「納富信景」の概要を参照ください。
- 納富氏の子孫「納富鍋島家」も誕生のページへのリンク