紅衛兵の結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:24 UTC 版)
詳細は「紅衛兵」を参照 原理主義的な毛沢東思想を信奉する張承志ら学生たちによって1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体が結成され、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。 しかし、次第に毛沢東思想を狂信的に掲げて暴走した彼らは、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派にも統制できなくなり、紅衛兵は中南海、紫禁城、核開発関連の軍事施設への侵入を試み、毛沢東の護衛を担当する8341部隊はこれを撃退していた。1967年2月までには中国政府は人民解放軍を投入して紅衛兵を排除することを決定し、同年9月5日に毛沢東は中央軍事委員会主席として中国に秩序を回復させることを人民解放軍に命じ、人民解放軍と紅衛兵の武力衝突が起き、広西チワン族自治区では人民解放軍が紅衛兵を大量に処刑した。 1968年には、青少年たちは農村から学ぶ必要があるとして大規模な徴農と地方移送である上山下郷運動(一般的には下放と呼ばれる)が開始された。多くの青少年は過酷な環境に適応できなかったために死んでいった。 紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引していく年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼしていると言われる。
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