等安の勘合貿易復活計画と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:41 UTC 版)
「村山等安の台湾出兵」の記事における「等安の勘合貿易復活計画と挫折」の解説
台湾出兵失敗の翌年、1617年(元和3年)3月、村山等安は、明石道友が前年に人質とした董伯起を伴い、福建に来航して江戸幕府から明の皇帝宛の親書と献上用の装飾を施した武具や丁銀を呈上し、勘合貿易の復活を願った。しかし明側は福建側の交渉担当者から前年の台湾出兵、そして薩摩藩の琉球侵攻、倭寇の海賊行為について厳しく指弾され、退去を命じられた。 前年、明石道友との交渉に活躍し、身をもって人質となった董伯起は、日本との内通者ではないかとの憶測が福建において流された。秀吉の朝鮮出兵以降日明関係は緊張が続いており、疑心暗鬼が渦巻いていた。1617年に帰国した董には疑惑の目が注がれたが、彼は明当局に人質生活の中で入手した日本に関する貴重な情報をもたらした。 そして、台湾出兵と勘合貿易復活計画が挫折した村山等安は、1619年(元和5年)11月に処刑され、翌年にかけて秋安ら一族の男性も処刑、等安の妻など女性は投獄された。台湾出兵と対明貿易復活の失敗は等安失脚の決定打になったと見られている。等安の後を襲って長崎代官となったのは末次平蔵であった。平蔵は長崎において南洋方面への貿易を手広く行っており、村山等安のライバル的な存在であった。
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