笵学淹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/05/22 09:32 UTC 版)
笵学淹(はん・がくえん 英:Peter Joseph Fan Xueyan 1907年12月29日—1992年4月13日)は、カトリック保定教区司教(1951年4月12日– 1992年4月13日)。
目次 |
生い立ち
1907年(清光緒三十三年)2月11日(陰暦12月29日),笵学淹は中国河北省保定から東に30里離れた清苑県小望亭村に生まれ、名を玉貴といった。父母共に敬虔で善良なカトリック教徒であり、1900年の義和団の虐殺の厳しい試練に遭遇したが幸いにも生き延び、信仰は堅固で、家は裕福で人には気前が良かった。
笵学淹は生まれてから八日目に本堂の神父の手で受洗し、霊名をペトロといった。
修道
保定:備修院與小修院
笵学淹は父母と本堂神父の養育を受け、幼くして修道を志した。1918年、11歲の笵学淹は保定の西關備修院入り学習し、1920年に聖ヨゼフ小修道院へ転入した。
1927年、20歲的笵学淹修士といとこの楊慕時(洗礼マタイ)は一緒に北京の西直門外大柵欄聖文生石門大修道院へ送られ、哲学と神学を学んだ。この時彼の彼の母親は彼が還俗して家に戻ることを希望し、並びに彼の結婚の取り決めを後ろ立てしたが、笵学淹は動じることなく、修道生活を続けた[1]。
北京:大修道院
笵学淹修道士が北京石門大修道院に入ったちょうどこの年に、教皇庁駐華代表剛恒毅司教が修道院を視察し,彼等の才能を見て非常に褒め、彼等をローマのウルバノ大学で深く研究させるために送った。
ローマ:ウルバノ大学
1934年年末、笵学淹修道士は神学、哲学課程を修め、教会法博士の学位を取得した。同年12月22日、笵学淹修道士はローマで司祭に叙階された。彼は初ミサで自分を特別に中国教会の守護聖人である聖ヨゼフに奉献し、希望象聖ヨゼフと同じように生涯イエズス・キリストに仕え、聖母マリアを熱愛することを望んだ。そして、自分の元の洗礼名であるペトロの後にヨゼフを付け加え、ここから彼の霊名はペトロ・ヨゼフ(Peter Joseph)となった。
司祭職
保定教区
1935年,笵学淹神父といとこの楊慕時神父は共にローマを離れ、て宣教のために帰国した。楊慕時神父在は南京教区で于斌司教の秘書を担当し、笵学淹神父はすぐに保定教区に戻り、困難な環境の山地で布教した。
徐州教区
1940年、保定教区は徐州教区邰鉄欧司教の要請に応じ、笵学淹神父と本教区の朱友三、安比約、趙保祿、陳比堯、候鴻佑等九人の神父を派遣して徐州に活動に行かせた。笵学淹神父は徐州市に派遣されて教会の中学の歷史教師をした。1941年12月7日,太平洋戦争画勃発し、徐州教区の40名の外国人神父は全て上海の徐家匯大堂に集められ、かなり多くの小教区は神父が足りなくなり、笵学淹神父は蘇州と魯州の境界近くの碭山縣候莊村に転任となり、小教区の神父を担当した。戦争期間中、候莊は日本軍、汪兆銘軍、国民党軍、八路軍等の各派が絶えず出沒する地方で、笵学淹神父は複雜な環境で信徒が正常な信仰生活を維持するのに尽力し、同時に各派の軍隊の騒動に注意深く対処した。このような環境の中で、天主は神父に逆境で知恵と忍耐力をつけさせ、彼の信仰を固めたのである。
湖北
1944年、笵学淹神父は転任となり徐州を離れた。1945年、日中戦争は終わり、笵学淹神父は湖北省の宜昌に移り、難民救助と司牧の仕事に従事した。1949年、中国大陸の政局は変化し、笵学淹神父のかなり多くの親友と少なからずの聖職者がこのときに中国大陸を離れた。だが、他は中国大陸に留まることを望み、漢口で教会の不動産を管理していた。笵学淹神父は「私は中国人で、我の招命は中国にある,たとえわたしが中国で死んだとしてもそれも中華民族への祝福であると信じている。これは天主が我々の民族に対して認めることで、この土地の捧げものとこの民族の子供を受け入れたからである。」 と語った。
司教職
聖別
1951年4月12日,ローマ教皇庁は笵学淹神父を保定教区司教に任命した。6月24日(聖ヨハネ誕生の祝日)に、笵学淹神父は漢口聖若瑟司教座堂で祝聖を受けて、教皇庁、教皇に絶対の服従と死んでも中国を離れず、自分の教区を離れないことを誓った。
保定教区は周済世司教が1946年に江西省南昌教区の大司教に挙げられて以来、既に5年近く司教職の欠員があった。笵学淹司教は着任してから、保定教区の麻痺して数年になる教区体制を回復を講じた。
1958年初春、笵学淹司教は保定天主教愛国会の準備会議で教宗からの離脱を目ざした“三自愛国運動”に反対し、同年5月,政府の周到に計画した批判闘争大会で批判され、労働改造十年の判決を受けた。そして黄驊県労改農場と安新県大坨子労改廠で刑に服した。これとと同時に、天主教愛国会は已に司祭職を離れて数年になり、妻子のいた王其威が笵学淹的司教の職位を引き継ぎ、並びに獻県教区の趙振聲により祝聖されたが、この任命は未だに教皇庁の認可を受けてはいない。1969年年末、笵学淹司教の刑は満期になり釈放されて原籍の小望亭村に戻ったが、「黒四類」とされ続けて監視を受け、毎日煩雑な体力のいる労働に従事し、それは11時間の長さに達した。
1976年、教皇パウロ6世は自ら筆をとり笵学淹司教に手紙を送り、彼に対する配慮と慰め、賞賛と祝福を示した。1977年11月、笵学淹司教は因為受到教皇の賞賛を受けたことにより、政府の怒りを招き、再び拘束された。1978年4月15日、“笵学淹をリーダーとする天主教反革命集団」という罪名で再び逮捕された。
1980年1月4日、中国の政局は既に大きな変化が起こり、この時の笵学淹の件の再審結果では無罪という判決で釈放された。1月20日、笵学淹司教は南大冉看守所から釈放され、原籍の小望亭に戻った。1月26日、彼は労働改造を解除されたばかりの元保定教区神父である姬永賢、曲警鳳をそれぞれ徐水縣安家荘、墳台、椿木峪、師荘の村と清苑県東閭村等の地へ派遣し、天主教愛国会に参加したことのある神父を多くの信徒の面前で罪を悔い改めるようにした。
1981年1月1日,笵学淹司教は徐水県安荘村の熱心な青年安樹新学識の不足を顧みずに彼を司祭に叙階し、同年の枝の主日には、笵学淹司教は将清苑県田各荘村のサレジオ会修道士蘇志民も司祭に叙階した。笵学淹司教は「現階段で我々は完璧な修道院を持つことは出来ず、我々の神父も聖トマスと同じように学問を究めることは出来ない。だが、我々の司祭は皆聖ヴィアンネのような聖徳を備えている。知識は最重要なものではなく、ただ德行が首位を占めるのである」とした。笵学淹司教は「知識が足りなくても、叙階された神父はまだ再び学べるが、品行方面では曖昧であってはならない。これはその時代とその特殊な環境下の召命に関わる指導原則である。この後、正定教区神父である賈治国、易県教区神父の周善夫と天水教区神父の王彌祿をそれぞれ正定教区、易県教区と天水教区の司教に聖別した。並びに賈司教に趙県教区の閔神父を司教聖別するのを託した。連絡が不便なため、笵学淹司教の行動はローマ教皇には指示を請わず、事の後に自分で私的に司教を聖別した事情を教皇庁に報告し、処分を受けるという意思を示した。教皇ヨハネ・パウロ2世は笵学淹司教を処分しなかったばかりか、書簡で笵学淹に特権を授け、「一切の事は、貴方が先に処理を決め、その後に私に取りまとめて報告すればいい」[2]。この後、河北省の地下カトリック教会は迅速に拡大し、1995年末までに河北省の地下司教は累計で27名(その内の13名は故人)に達した。愛国会がコントロールする自選自聖の非合法の司教は僅か10名(その内2名は故人)であった。地下カトリック教会は保定、張家口、石家莊、邢臺、邯鄲5市の大部分の聖堂を押さえ、その配下または影響下にある信徒は150万人以上に達する。
1982年4月13日、笵学淹司教は司教を聖別して[[教皇]に手紙を書いて指示を願ったことにより、三度目の捕逮をされた。そして「裏で外国と通じ、私的に司教を聖別した」という罪で十年の刑の判決を受け、河北省第二監獄で刑に服した。
1987年11月17日,政府は国際社会の世論に迫られ、81歲の笵学淹司教を仮釈放して彼を保定市の旧道大堂に軟禁した。
1988年1月3日,笵学淹司教は一人の来訪者に天主教愛国会に関する問題の問答を《十三条》に整理して回答し、中国カトリック教会內では地下教会だけでなく広く伝わり、各地の信者はしきりに答え、“愛国会”に抵抗する波は次第に高まっていった。彼は愛国会の神父は分裂した教会ですでに神権を失っており、カトリック信徒は愛国会の神父が司式するミサに参加せず、彼らに対して聖体拝領をしてはならないとした。その影響を受け、甘肅平涼教区の馬驥司教も《我的声明》を発表し、これも中国カトリック教徒の間で騒動になった。
1989年11月20日、中国大陸カトリック教会の各地の忠実な司教と司教代表は陝西省の三原教区高陵県張二冊村にこぞって集まり、秘密裏に会議を開き、成立「完全に教皇の指導を受け入れ、そのカトリック教会との徹底した一致を維持する“中国大陸司教団”が成立し、当時笵学淹司教は軟禁されており、自らは出席出来なかったが、教区長一致の推挙で、笵学淹司教を初代団長に選出した。笵学淹司教は公然と地下カトリック教会の指導者となった。
“中国大陸司教団”の成立は,中国政府を震撼させた。由於笵学淹司教的強大影響力,1990年11月3日,笵学淹司教は保定の司教館から政府により秘密裏に連れ去られ、石家莊の烈士陵園內に一ヶ月滞在した後、密かに河北省承德寬城県潘家ダム內の一小島に押し込められた。1992年4月、84歲の笵学淹司教は中国共産党当局から残酷な仕打ちを受け、過酷な仕打ちと飢えの後,終にその命を神に捧げ、中国大陸の偉大な殉教者となった。1992年4月13日、当局は大勢の公安武装警察を動員して、緑色のビニール袋の中に笵学淹司教の亡骸を入れて河北清苑県小望亭聖堂の入り口に放置した。司教の死体は痩せ衰え、目は窪み、血の跡だらけの傷痕に覆われ、顔は悲しみを帯び、正視するのに忍びなかった。数日の內に、15万人が全国各地から尊敬すべき笵学淹司教を弔問に来た。4月24日午後になって埋葬し、有4万名の信徒が埋葬を見送った[3]。
この後に保定教区の司教を引き継いだ蘇志民と安樹新も相次いで東閭大教難の期間に逮捕されている。
参考文献
- ^ 基督的忠僕 一代偉人—笵学淹司教
- ^ 記者師笵君:臺北《教友生活週刊》,1984年1月16日
- ^ 2001年4月24日,笵学淹司教的墳墓被政府用推土機推平
- 笵学淹のページへのリンク