第8師団と第8師管の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/08 22:51 UTC 版)
「第8師管」の記事における「第8師団と第8師管の関係」の解説
師団制の師管は、日中戦争がはじまって部隊数が激増する1937年まで、同じ番号の師団と密接に結びついていた。第8師団の兵士はほとんどが第8師管に戸籍を持つ男子から徴集された。また、第8師管から徴兵された兵士は第8師団に入るのが原則であったが、様々に例外がある。まず、独自の師管を持たない近衛師団には、全国の師管から兵士が送られた。1930年頃までは人口が少ない北海道の第7師団に複数の師管から徴集された兵士が配属された。第8師管から第7師団に配賦された兵士は、1903年に112人、1906年に40人、1907年に56人、1914年に104人、1920年に230人、1925年に888人、1928年に734人と推移した。大正・昭和期には朝鮮に置かれた師団にも送り出した。1928年(大正15年)に第8師管から徴集された現役兵は6081人。そのうち、第8師団に入ったのは5018人で、近衛師団に249人、第7師団に734人、朝鮮の第20師団に80人が割り当てられた。逆にこの年の第8師団には南隣の第2師管から214人の騎兵が配属された。第8師団は騎兵を多く持つ特別な編制をもっていたために、他師管から騎兵を回されたようである。 戦時には第8師団の損害を埋めるための補充兵を送り出したが、大きな戦争では新しい部隊を臨時編成したので、そうした新部隊に入る兵士が多くなった。 師管はまた、師団が地域防衛・治安維持に責任を負う範囲である。第8師管が置かれた1896年には、大軍が来襲して日本を征服するといった可能性はなくなっていたが、優勢な海軍力を持つ外国が近海の交通を脅かしたり、要港を一時的に占領するといった可能性はなお拭えなかった。その点で津軽海峡は要地と言えた。1933年(昭和8年)の昭和三陸地震では、岩手県の被災地に第8師団の留守司令部が救護隊を派遣した災害出動があった。
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