第5回鈴鹿8時間耐久ロードレース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
「吉村秀雄」の記事における「第5回鈴鹿8時間耐久ロードレース」の解説
1982年8月1日、台風10号が接近する中、吉村は内心レースが中止になることを望んでいた。空冷4バルブエンジンの完成度が低いことに加えて、今大会にエントリーしていたウェス・クーリー、デビッド・アルダナが活躍していたアメリカでは雨天でのレースは中止になっていたため、両者ともウェットコンディションでのレース経験が無かったからである。そして、何よりが台風が直撃する中でのレースは危険だと感じていた。 レースは6時間に短縮されることが発表され、強行開催された。この年のヨシムラは伊太利屋がスポンサーになったことにより、ピンクと白のコーポレートカラーをまとったテスタロッサ1000Rで参戦した。GSX1000Sエンジンは吉村の手によって最大出力150psまで高められていたが、タイヤの性能が低く、川のようになったサーキットの路面ではその出力も十分に路面に伝えることは出来なかった。スタートライダーを務めたアルダナは4周にわたってトップを走行するも、たびたびスリップしていることから吉村はペースダウンを指示した。ウェットコンディションに耐性の無い外国人ライダー達は次々に脱落していき、7周目には上位10チームの内7チームは雨天での鈴鹿の走行経験を持つ日本人ライダーが占めていた。メカニックが手作業でグルービングを彫ったレインタイヤを装着するも路面の水膜は排水性能を上回り、3時間を経過した70周目にアルダナは最終コーナーで転倒を喫し、ホームストレートを400メートルあまり為す術無く滑っていった。ピットロードに立つ吉村の前に転がってきたアルダナに吉村は駆け寄り、怪我の無いことを確認すると再びコースへ送り出した。結局この年の優勝は朝霞研究所の「ブルーヘルメット」に所属する飯島茂男・萩原紳治組という雨天の鈴鹿をよく知るチームが獲得し、ヨシムラは6位に終わった。
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