第二次世界大戦・大戦中期から後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/01 02:21 UTC 版)
「ジョン・D・バルクリー」の記事における「第二次世界大戦・大戦中期から後期」の解説
バルクリーはマッカーサーを脱出させたあと、1942年9月まで南西太平洋軍で魚雷艇の指揮を執ったのちアメリカ本国に戻り、ロードアイランド州ポーツマスの魚雷艇訓練センターで第2魚雷艇隊司令として各種実験に関わっていたが、1943年9月から1944年3月までは病気のため休職した。病気から回復後は第2魚雷艇隊を率いてヨーロッパ戦線に参加し、1944年6月のノルマンディー上陸作戦でのユタ・ビーチの戦いに参じ、ドイツ海軍の魚雷艇Eボートの攻撃から上陸部隊を守る一方、上陸作戦で沈没した護衛駆逐艦「リッチ」 (USS Rich, DE-695) 、駆逐艦「コリー(英語版)」 (USS Corry, DD-463) 、掃海艇「タイド(英語版)」 (USS Tide, AM-125) の乗組員の救助作業を行った。 1か月後には南ヨーロッパ戦線に移り、ドラグーン作戦のさなかの8月17日に起こったラ・シオタの戦い(英語版)では、駆逐艦「エンディコット(英語版)」 (USS Endicott, DD-495) とともに、イギリス海軍の2隻の砲艦を攻撃してきたドイツ海軍のコルベット2隻を迎撃して撃沈した。ラ・シオタの戦いでバルクリーは終始主導権を握り、「私は他に何が出来ようか?あなたが従い、戦い、そして勝つ。そして、これが将来的にアメリカ海軍の評判を高めることとなる。」と後日回想している。その後、バルクリーはスタテンアイランドのベスレヘム・スチールで建造中の駆逐艦「ストライブリング(英語版)」 (USS Stribling, DD-867) の監督のためアメリカに戻り、1945年9月29日の公試運転では「ストライブリング」を操艦した。
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