第一次龍陵攻防戦
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こうした中、11日に騰越を出発し、龍陵に向かって一路南下した松井連隊主力は、雨季による道路のぬかるみや河川の増水に悩まされつつも、15日早朝から龍陵北方に向かって突進を開始した。遠征軍は退却を始め、松井連隊主力は17日10時頃龍陵に入り、守備隊との連絡に成功した。さらに松山師団長は、騰越方面から猪瀬大隊、宮原大隊(蔵重連隊の第3大隊)、武田大隊(松井連隊の第1大隊)を抽出して龍陵戦線に転用したが、この結果、歩兵第148連隊長の蔵重康美大佐は、寡兵をもって第20集団軍主力の攻勢を騰越陣地で拒止することとなり、以後の騰越守備隊の玉砕につながった。 松山師団長は、龍陵周辺に集結した師団主力をもって遠征軍に対して攻勢を執ることとした。松井連隊(19日に武田大隊が復帰し、隷下3個大隊が揃う)は、21日夜半頃龍陵から前進を開始し、23日夜に追加配属された猪瀬大隊、奥仲部隊(捜索第53連隊主力及び野中大隊(歩兵第119連隊第1大隊))を併せ指揮して北進し、第71軍主力を攻撃したが、衛立煌から第一線の後退を厳禁された第71軍は頑強に抵抗し、その逆襲は執拗をきわめた。27日、松山師団長は松井連隊に、騰越方面から抽出した宮原大隊(蔵重連隊の第3大隊)及び藤木大隊主力を増加し、さらに攻撃を続行させたが、既に戦力は限界に達しており、遂に28日に攻撃中止を決意した。各部隊は7月2日夜に行動を開始して龍陵付近に後退し、逐次兵力を集結した。 なお、この龍陵付近の戦闘の間、龍陵の北東に位置する拉孟守備隊は遠征軍に包囲されて孤立し、激しい攻撃にさらされたが、寡兵勇戦して敵を阻止した。また、拉孟と同様に孤立した龍陵南東の平戞守備隊も、同地特有の風土病に苦しみつつ、敵の厳重な包囲下にあって孤軍よく陣地を保持して戦った。
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