竹原塩田と瀬替え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 08:47 UTC 版)
「賀茂川 (広島県)」の記事における「竹原塩田と瀬替え」の解説
江戸時代初期、広島藩により賀茂川下流で干拓が行われた。当初は新田開発を行おうとしたが、賀茂川が天井川となるほど低地でかつ強い潮気のため水田には不向きな土地であったため、塩田に切り替えられると良質な塩の産地となり、以降更に干拓は進み塩田は拡大していく。 現在の河口部の山は元々は湾内に浮かぶ「横島」という島であった。万治3年(1660年)多井新開成立により現在の右岸側と陸続きになり、河口は横島の東側、つまり竹原港側へ向かうようになる。これにより賀茂川からの流出土砂が竹原港が埋積するようになり、塩田の塩分低下や干拓地の湿地化と悪影響をおよぼすようになってしまった。これを改善するため寛保2年(1742年)、川水を横島を縦断して流す「瀬替え」工事が始まった。当初は2本のトンネルで流すよう考えられ、西側は寛永4年(1751年)「唐樋トンネル」として完成し現在も残るが、東側は工事中の度重なる崩壊によりトンネルは断念し開削に変えられ、安永3年(1774年)いわゆる「賀茂川の切り抜き(切通し)」が完成した。こうして河口部は32年に渡る大工事により人工で整備されたものである。なお現在中国地方において近世の工事でできた切通しが確認できる場所は少なく、さらに河口部で大規模かつ明瞭にわかる場所としては極めて珍しいものとなっている。 そして文政8年(1825年)、横島の北側に皆実新開が成立し、現在の左岸側も陸続きとなった。 こうした中で享保・寛政年間(1700年代)の出水などの洪水被害に度々あった記録が残る。
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