稲生川の開削と三本木原の開拓とは? わかりやすく解説

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稲生川の開削と三本木原の開拓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 03:52 UTC 版)

法量 (十和田市)」の記事における「稲生川の開削と三本木原の開拓」の解説

奥入瀬川下流域には、八甲田火山十和田湖火山つくりだした広大な火山灰台地になっており、「三本木原」と呼ばれていた。三本木原乏しいうえにやませが吹き付ける過酷な環境で、近世まで稲作適さない不毛の地とされてきた。 幕末南部藩家老新渡戸傳新渡戸稲造祖父)は、法量から水路を拓き、三本木原開拓乗り出した当初目論見では、三本木原に近い熊ノ沢川から水路を築く予定だったが、水量乏しく効果期待できないため、奥入瀬川本流中流部から引水することになった。この水路は、法量奥入瀬川から2本の水路導水し、標高200m山の尾根2本をトンネル貫き中里川熊ノ沢川を地下水路潜り抜けるもので、大変な難工事となった。 1855(安政2)年に工事始まり、1859(安政6)年に水路三本木原到達し稲生川命名された。これにより三本木原開拓始まり一帯には広大な放牧地生まれて日本代表する馬産地となり、いわゆる南部駒の産地として知られるようになっていった。軍馬重要視されていた太平洋戦争期までは、陸軍軍馬補充部三本木支部置かれており、これは全国軍馬補充部のなかで最大のものだった一方冷涼な気候のため稲作思うよう成果挙げられず、もっぱらアワ・ヒエなどの雑穀生産するに留まった。 三本木原には京都模した整然とした区画つくられ、これがいまの十和田市中心部区割りとなっていった。この区割りは後に札幌建都した島義勇参考にしたと伝えられている。稲生川開削その後続けられ着工から111年目の1966(昭和41)年に海に到達した稲生川2014年国際かんがい排水委員会(International Commission on Irrigation and Drainage)により、かんがい施設遺産登録された。

※この「稲生川の開削と三本木原の開拓」の解説は、「法量 (十和田市)」の解説の一部です。
「稲生川の開削と三本木原の開拓」を含む「法量 (十和田市)」の記事については、「法量 (十和田市)」の概要を参照ください。

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