種田山頭火への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 00:54 UTC 版)
井上井月に影響を受けた一人に、自由律俳人の種田山頭火が挙げられる。 山頭火日記の「昭和5年8月2日」の項に「樹明兄が借して下さつた『井月全集』を読む、よい本だつた、今までに読んでゐなければならない本だった、井月の墓は好きだ、書はほんとうにうまい」とある通り、山頭火は井月の句を繰り返し読み、思慕の情を持つようになる。昭和9年(1934年)3月、52歳の山頭火は井月の墓参を決意し、山口から伊那谷に向けて東上する。しかし、清内路峠付近は雪が深く、4月に信州飯田市に入ったところで肺炎を発症し、2週間緊急入院することとなり、墓参を諦める。 その4年後、昭和14年(1939年)3月31日、再び山口を出立し、5月3日、列車で天竜峡駅に着く。その後、伊那谷に向かい、俳人であり伊那高女教諭だった前田若水の家に立ち寄り、若水の案内を得てようやく井月の墓参を果たす。山頭火の「風来居日記」の5月3日の項には、墓参の様子が100行ほどに渡って記されており、その中に、井月の墓を前にしての即吟を4句残している。 井月の墓を前にして・お墓したしくお酒をそゝぐ・お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました・駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね・供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝 日記の中に「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えているのは路通や井月のことである。彼等の酒好きや最後のことである」と書きつけている通り、山頭火は井月の作品と生き方に影響を受けたと考えられ、蕉門の乞食僧俳人であった八十村路通などと合わせて、そこに放浪俳人の系譜を見ることもできる。
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