秋野不矩をめぐるエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 05:40 UTC 版)
「浜松市秋野不矩美術館」の記事における「秋野不矩をめぐるエピソード」の解説
天竜市が美術館建設を決定してから、秋野は自身で各地の建築物を見て回っていたが、長野県茅野市にある「神長官守矢史料館」を見て気に入り、設計者の藤森を天竜市に推薦した。 計画当初は建設候補地として鳥羽山(現在の鳥羽山公園付近)が挙がっていたが、のちに二俣町も候補となり2案となった。藤森は、二俣町が候補地に絞られてから、山の谷となる部分に美術館をダム状に作る案(谷案)と北側の尾根を利用して作る案(尾根案)とを構想しており、藤森は谷案を勧めていく意向でいた。秋野を説得するために秋野と親しかった赤瀬川と南伸坊を連れて、秋野に説明に行ったところ、秋野は一旦了承したものの、現地に赴いて様子を見ると考えが変わり、尾根に美術館を建設するよう強く要望した。作家と建築家の双方が譲らなかったため、約半年間計画が停滞した。天竜市が決めた最終期限を前に、秋野が家族に「(谷案を)受け容れることになるだろうが、自分の本心としては嫌だ」と打ち明けていたことを知った藤森は、「私はこんなところに埋められたくない」という秋野の気持ちを尊重して谷に建設する案を取り下げ、尾根の上に建設する尾根案にすることで決着した。 秋野は尾根に建設することが決まってからはその他の建築計画について一切要求はせず、「(藤森に)任せる」と口を出さなかった。 秋野は背が低かったこともあり、展示の位置を低く指示していた。このことが、裸足になり座って鑑賞するスタイルの美術館を構想した要素のひとつになっている。 美術館完成前、主展示場となる第2展示室のコンクリートが打ちあがった際に現場を訪れた秋野は、藤森から代表作「渡河」を飾りたいと言われたが、12メートルの壁面では「渡河」は小さい作品だと考え、壁の大きさにふさわしい絵をと、その日の夜から新作に取りかかり、「オリッサの寺院」を描き上げた。 第2展示室の大理石の床の下には、美術館竣工の日に秋野が藤森と天竜川の河原で拾ってきた小石が納められている。秋野が故郷・天竜川の河原を好んでいたことによる。
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