私的難題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 09:08 UTC 版)
「ジョン・ポール・ゲティ・ジュニア」の記事における「私的難題」の解説
ゲティはイタリア・ゲティ・オイルのトップとしてローマに移り住んでいたが、1971年のタリサの死後イングランドに戻り、暫く1人で過ごした。1973年、長男のジョン・ポール・ゲティ3世がカラブリアのマフィアによりローマで誘拐され、カラブリア山中の洞穴で拘束された。ゲティには犯人の要求する1700万ドルの身代金を捻出する余裕は無く、父のジャン・ゲティは「1ペニーでも身代金を支払ってしまうと、14人の孫全てが誘拐されかねない」と援助を拒否した。しかしポール・ゲティ3世の切り落とされた片方の耳がローマの日刊新聞に届けられると(配達は郵便局のストライキのため3週間遅れた)、ジャン・ゲティはようやく身代金支払いに同意した(一部は息子に貸し付けられた)。1976年、父ジャン・ゲティ死去。続く10年間は抑うつで苦しみ、薬物中毒に終止符を打つべく1984年、ロンドン・クリニックに自らを委ねた。その間、当時のマーガレット・サッチャー首相から、彼のナショナル・ギャラリーに対する多額の寄付に感謝するための訪問を受けた。彼女は「物事を憂鬱にしてはいけません、違いますか?出来るだけ早くここを出ましょう」と励ましたという。1970年代の失意の時期、元イングランドのクリケット選手で後のメリルボーン・クリケット・クラブ(英語版)会長ガビー・アレン(英語版)の励ましを受けていた。ゲティは以前ローリング・ストーンズのミック・ジャガーからゲームを手ほどきされていた。
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