福田政権実現までの動き
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佐藤後の後継を選ぶこととなった1972年自由民主党総裁選挙では佐藤の意を受けて福田を支持するが、田中が佐藤派の多数派を引き連れて総裁選出馬へと動くと田中派が結成されるのに先立って派内の非・田中支持議員を糾合して「周山クラブ」(保利派)を結成。しかし田中支持への動きを止められずに福田は落選。総裁選挙後に福田派へと合流する。 第2次田中角栄内閣では行政管理庁長官となる。第10回参院選での自民党の敗北を受けて三木武夫が環境庁長官を辞任したのに続き、福田が大蔵大臣の辞意を表明すると、保利は自ら慰留に動くが、福田の意志は変わらず、責任をとって行政管理庁長官を辞任した。1974年に田中金脈問題の表面化から田中首相が退陣した際に、自由民主党副総裁だった椎名悦三郎と組んで後継総裁の調整に動き、三木を後継総裁に指名した『椎名裁定』を陰で演出する役回りを演じた。だが1976年にロッキード事件の発覚から「三木おろし」が起きた際には椎名や船田中・園田直と共に反主流派連合党挙党体制協議会(挙党協)が結成され船田中とともに代表世話人になり、三木降ろしの先頭に立った。 保利は「大福一本化」工作に乗り出し、金丸信が二人を仲介して保利・福田会談が実現した。保利は大平の側近・田中六助を招いて大平説得を依頼した。この間、田中派の西村英一を通じて田中の意向も確認した。10月27日、品川のホテルで保利と福田・大平・園田直・鈴木善幸が会談し、その席上で2年交代を示唆する大福一本化のメモが読み上げられ、保利が立会人となって文書に福田・園田・大平・鈴木の4人が署名し調整役として大福密約を結ばせた。
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