神野新田の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 03:34 UTC 版)
三郎の大谷派普通学校での成績は抜群であり、アメリカ合衆国への留学を希望していたが、1893年(明治26年)に初代神野金之助が神野新田の開拓に着手すると、初代神野金之助によって現地責任者に抜擢された。名古屋から豊橋市牟呂町に転居し、学校卒業後わずか数か月の1893年(明治26年)6月には工事に従事している。1896年(明治29年)4月15日には神野新田が完工し、榎本武揚農商務大臣らの列席による成工式が行われた。また1899年(明治32年)3月には3年前に完成していた牟呂用水の改築工事も完了した。 1899年(明治32年)7月26日、初代神野金之助の三女である神野りきと結婚した。りきは三郎のいとこでもあり(いとこ婚)、三郎は25歳、りきは17歳だった。1905年(明治38年)3月17日には豊橋神野家の初代となった。1906年(明治39年)には農事試験場を作って農作物の研究を重ね、小作農家に対する農業指導も行った。また、豊橋蚕糸周旋会社(1907年)、東海ペニー株式会社(1917年)、豊橋電気軌道株式会社(1923年)など、数多くの会社の設立にも関与している。 三郎は緑肥・堆肥によって土壌の改良を試みたり、1908年(明治41年)に豊橋に移転してきた日本国陸軍第15師団が排出する厩肥を用いたりし、神野新田の収穫量は徐々に増加していった。こうして神野新田は模範的な新田と評価され、新渡戸稲造一行(1912年)、松井茂愛知県知事一行(1913年)、竹田宮恒久王(1915年)などが神野新田の視察に訪れている。
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