神戸での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 06:28 UTC 版)
1882年(明治15年)7月兵庫県立神戸医学校一等教諭、1884年(明治17年)5月県立神戸病院副院長(外科部長)となり、患者の美容整形や外科防腐法の改良で名声を高め、医学校では外科臨床を講義した。在職中、京都府・大阪府で医術開業試験委員を務めた。 1886年(明治19年)12月病院・医学校を退職し、1887年(明治20年)3月神戸区坂本村に私立杉田病院を開業した。1889年(明治2年)神戸医師総代として神戸基督教会堂を買収して医会堂を建設し、1890年(明治23年)神戸市医師組合を設立した。その他、私立明石病院教師、加東・加古・菟原・武庫諸郡連合医師研究会顧問、私立大日本私立衛生会委員、兵庫県医会長、東山避病院長等を兼ねた。 1893年(明治26年)病気となり、知人に院長代理を任せたが、客足が遠のいたため、2月弟杉田盛を招いて院主とし、経営を立て直した。9月頃病状が快復し、診療に復帰した。1906年(明治38年)7月31日脊髄炎で死ぬ当日午前まで診療を続け、青山墓地に葬られた。
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