社会の受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:42 UTC 版)
改暦によって天保暦が廃されグレゴリオ暦が採用されたが、その後も年中行事をはじめとして日常生活では旧暦を使用する地域が多かった。昭和期に入っても旧暦に基づいた行事を催す地域は多かったし、太平洋戦争終戦直後に行われた迷信に関する調査でも盆や七夕を旧暦で行う地域は少なくなかった。旧暦の併記廃止は、旧暦に基づく年中行事や旧暦中に亡くなった故人の命日の把握などに不便を生じ、特に、農事暦として旧暦を利用していた農村では、旧暦はなくてはならないものだった。また、暦注は、迷信と言われようとも庶民の暮らしや伝統文化に根付いていた。お化け暦は、こうした層に歓迎され、大量に流通した。特に、官暦に旧暦の併記がされなくなってからは、お化け暦は庶民の生活の唯一のよりどころとなった。 政府による取り締まりは厳しかったが、それ以上に需要があり、必要とする庶民は、お化け暦の出版者を匿ったり、手を尽くしてお化け暦を入手しようと努めた。歳末には露天で大量のお化け暦が販売されていた。お化け暦の出版者の中には、摘発されて罰金を科せられ、それを払うためにお化け暦を発行してまた摘発されるということを繰り返し、前科43犯を数える者もいたほどであったという。 旧暦の使用や迷信の排除を進める政府に隠れてお化け暦が庶民の間で流布したことについて、脚本家の山本むつみは「変化を急ぐお上に向けた、庶民からのささやかな『異議申し立て』だったのかもしれません」と記し、文化人類学者の中牧弘允は「科学や迷信の名のもとに切り捨てられない、庶民のしたたかな抵抗」と見ることもできると指摘している。
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