燕京への遷都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 00:53 UTC 版)
貞元元年(1153年)3月、都をそれまでの上京会寧府から燕京に移して「中都大興府」と称した。 皇統2年(1142年)に成立した皇統の和議による南宋との国境線画定の結果、金の領域が南方に広がることが確定し、従来の会寧では北に偏り過ぎていることが最大の理由として考えられている。また、中都遷都から間もない正隆元年(1156年)には大規模な官制改革(「正隆官制」)を行って、北方民族の部族封建制から中国的な君主独裁制・官僚制への移行が図られている。 遷都に先立って燕京の拡張工事が行われているが、ここでも北宋の都であった汴京(開封)を意識した都城整備が行われており、中国文化・漢族社会の受容と模倣の反映と考えられている。 今の北京には過去にも燕の王都であった薊城(中国語版)や遼の五京の1つである南京幽都府/燕京析津府が置かれていたが、皇帝が住む都城として整備されたのは初めてのことであり。その後の歴代王朝、そして今日の中華人民共和国の首都である北京の直接の源流となったのは、海陵王の燕京遷都であると言える。
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