碁打ち・将棋指しとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 13:56 UTC 版)
実隆は囲碁の愛好家でもあった。文明17年(1485年)2~3月には囲碁の記述が多く、しばしば盤を囲んでいる。その中には「置石二で勝つ」などの記述もあり、すでに置き碁によるハンデの考え方が定着していたことがわかる。 将棋については、日記のほぼ全期間にわたって言及があり、囲碁以上の愛好家であった。『実隆公記』中には、将棋の対局を行ったとする記述が約250か所にのぼっている。あまりにも熱中しすぎていたため、永正元年(1504年)には「すこぶる狂事なり、咲(わら)ふべし咲ふべし」(5月14日)と、自らを戒める記述がある。なお、棋譜は全く残っておらず、当時は棋譜を残す慣習もなかったとされる。日記中には「中将棋」と「小将棋」の記述があり、小将棋が現在の将棋と同じもの(駒数40枚)か、現在より駒数が2枚多い(42枚)ものであったかも不明である。単に「将棋」(日記中では「象戯」あるいは「将棊」と記されている)という記述もあるが、これは中将棋を示している可能性も指摘されている。 対局相手として名前が明らかになっているものは約40名である。公家や連歌師の名前が多いが、その中でも群を抜いて対局が多いのが富小路俊通・富小路資直の親子である。とくに資直とは対局が多く、明応7年(1498年)から享禄4年(1531年)まで、34年に渡って資直との対局の記述がある。この間に資直は六位から従三位に昇進しているが、この昇進に対し、理由は不明であるが他の公卿から激しい反対にあっている。増川宏一は、実隆が強引な人事を推し進め、資直を昇進させようとしたのが反発の原因ではないかと推測している。 能筆家であった実隆は、将棋の駒の文字を書いたとする記述も多く、文明13年(1481年)に鞍馬寺(実隆が幼少を過ごした疎開先でもあった)の杉本寂慶が所望したため駒書きを行っているのが最初である。その後駒書きに関する記述は明応5年(1496年)まで現れず、このときには「書いたことがない」との理由で一度断っているが、後に再度依頼されて駒書きを再開している。
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