知略・統率力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:32 UTC 版)
昌幸は現代の歴史小説において「謀略家」「謀将」として描かれる傾向が非常に根強い。誤りとまではいわないが、この従来の人物像の基礎になっているのは江戸時代中期の享保16年(1731年)に成立した松代藩士・竹内軌定の『真武内伝』である。そのため、確実な一次史料の存在が乏しく、昌幸の人物像や個性に関しては不明な点も少なくない。文人としての知識や興味は乏しかったためかどうかは不明だが、昌幸の著作や詩歌に関連する物は皆無の状態である。『真武内伝』が信頼できるかどうかには疑問も持たれているが、これから昌幸の人物像を紹介すると、「昌幸卒去」の項に死に臨んで信繁に対し、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯・関ヶ原とほぼ同地点)で徳川軍を迎撃する策などを画し、徳川軍が攻めてくれば巧妙に撤退しながら隙を見ては反撃し、最後は瀬田の唐橋を落として守り、多くの大名を味方に付けるように策す事を遺言したとされる。ただこの作戦は寡兵で多勢の敵軍に何度も勝利した楠木正成が採用した策略や陽動作戦そのものであり、昌幸が死に臨んで披露したかどうかには疑問をもたれている。昌幸の策略は常に少数の味方で大兵力を抱える敵を破る事にあった。『真武内伝』では「古今の英雄で、武略は孫子呉子の深奥を究め、寡をもって衆を制し、神川の軍前には碁を囲んで強敵といえどもものともせず、その勇は雷霆にも動じない」と評している。同書によると昌幸は策略において常に楠木正成を手本にしていたとされている。また策略だけではなく、家臣や領民を糾合して大敵に当たった昌幸の統率力は高く評価されている。
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