相模野と新田開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 23:15 UTC 版)
最も多くの面積を占める相模原面群(上段)では台地表面を流れる河川がなく、地下水位も低くて水利に恵まれないために長く利用が進まず、原野が広がり周辺の村々入会の草刈場とされていた。相模野とは元々、この原野を指した呼称である。また、各区域ごとに「座間野」「鶴間野」「亀井原(亀井野)」などとも呼ばれた。古くからの集落は段丘崖下の湧水帯や台地を刻む谷戸に立地し、わずかな水田が開かれた。 江戸時代中期以降、相模原面群上で台地周縁部の農村の豪農らによる新田開発が進められた。中でも大規模なものが天保年間に着手された清兵衛新田(現相模原市中央区清新、相模原)であった。新田では水が得られないために水田は開かれず、畑地として開墾された。新田集落では薪炭を得るためにクヌギやコナラが植えられた。相模原市から大和市にかけて現在も残存する雑木林は、こうして作られた人工林である。 台地上の開墾は明治以降も進められ、第二次世界大戦後の引揚者による旧軍用地の開拓まで続いた。
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