相愛会
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相愛会(そうあいかい)とは、1921年(大正十年)、李起東(イ ギドン、り きとう 이기동)、朴春琴(パク チュングム、ぼくしゅんきん、박춘금)によって設立された親日的な朝鮮人労働者互助団体である。内鮮融和政策に協力した[1][2]。
詳細
設立
1920年(大正9年)、東京南千住にて、李起東、朴春琴により会の前身である朝鮮人労働者互助団体「相救会」が結成された。翌1921年(大正10年)に正式に社会事業団体としての「相愛会」に改組、李起東は会長、朴春琴は副会長に就任した。会は手配師としての業務を広く行っており、半島からの朝鮮人労働者の勧誘や仕事の斡旋を行っていた。また、業務として労働者の共同宿泊所、簡易診療、争議協調、労働者教育、苦学生の保護なども行った。社会主義系の朝鮮人労働者団体と敵対し抗争を行う一方、顧問に朝鮮総督府警務局長丸山鶴吉を迎え警察等の信頼を得ていた。1923年(大正12年)頃にはすでに横浜、甲府、名古屋、大阪に支部が組織されていた[1]。
関東大震災と奉仕活動

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生し、会は大きな被害を受けた。震災直後から流言により、関東各地で朝鮮人を狙った殺傷事件が多発し、4日には会の幹部が殺害される事件も発生した[4][注釈 1] 。
9月4日、李起東・朴春琴は警視総監赤池濃と面会し、震災後の朝鮮人労働者による奉仕活動を提案し協力を快諾された。9月9日、東京市長永田秀次郎に相愛会による瓦礫撤去の奉仕活動を申し出、労働者約三百名の労働奉仕隊を組織し無償で瓦礫撤去の奉仕活動を行った[注釈 2]。これは美談として広く報道され、デマや朝鮮人への偏見の解消に貢献した。 会は被災した朝鮮人の保護にも努め、本所区太平町の陸軍糧秣廠内に約千坪のバラック建物を建設し民間団体としては最大の千人もの朝鮮人を収容した。 また、災害義捐金の寄付も行った[7]。
組織の拡大と「発展的解消」
震災後、相愛会はさらに勢力を拡大した。1928年(昭和3年)には財団法人となり、丸山鶴吉[注釈 3]が理事長に就任した。1929年(昭和4年)4月には錦糸町にコンクリート造三階の相愛会館を落成させ本部を移転。大阪、阪神、城東、中央、三島、和泉、京都、静岡、愛知、 豊橋、瀬戸、岡崎、尾三、桑名、兵庫、福岡、佐賀、長崎、九州の各地方本部を組織し、会員総数は二万に達した。1938年(昭和13年)11月、内鮮融和を目的とした官製の統制団体「協和会」総本部が設立されるに伴い、会は「発展的解消」として解散となった[1]。
会の顧問・理事になった人物
政界の有力者が顧問に名を連ねる。
- 昭和5年:理事長丸山鶴吉、理事に赤池濃、守屋栄夫、顧問に斎藤実、頭山満、水野錬太郎、阪谷芳郎、宇垣一成。
- 昭和14年4月:顧問に犬養毅、池上四郎、林市蔵、頭山満、床次竹二郎、徳富蘇峰、大木遠吉、赤池濃、渋沢栄一[注釈 4][9]。
評価・批判
論者の立場により評価は大きく異なる。
敵対する無政府主義・共産主義者の団体に対してはしばしば暴力を伴う制裁や抗争を行った。そのため敵対者からは「日本政府の手先の反動分子」「労働者の搾取者」などと批判されている。当時の主な批判者として、敵対する朝鮮労働総同盟の金斗鎔がいる[2][10]。 また会は手配師として業務を行っていたため労働争議に会社側として介入し妨害を行うことが多く、批判されている[11] [12]。 一方、「一般日鮮人には絶大なる信用を博していた」という主張もある[13]。副代表の朴春琴は労働者上がりの親分肌の気質で、日本人を含めた大衆に人気があり、1932年には朝鮮人としては初の衆議院議員となり、朝鮮人と内地人の格差是正に努めた[注釈 5]。
戦後、韓国政府からは、李起東、朴春琴は親日反民族行為者に指定されている。
その他
映像
脚注
注釈
- ^ 南千住署に保護されていた相愛会人事課長金英一ほか一名が付き添いの刑事とともに一時外出中、王子電車三輪終点にて暴徒に襲撃され、金課長は死亡、刑事と朝鮮人一名が瀕死の重傷を負った[5]
- ^ 百人・百数十人とする記事もある[3][6]。
- ^ 昭和3年当時東京市助役、昭和4年から警視総監、昭和6年から貴族院議員。
- ^ 昭和14年時点で死亡含む
- ^ 当時、朝鮮半島在住者には選挙権もなく徴兵義務もなかったことから、衆議院本会議(昭和8年1月26日)[14]では、「朝鮮人が植民地人と言われるのは気に食わない。兵役義務を果たして参政権を得ることが同じ国民である」と演説し、翌昭和10年には陸軍大臣林銑十郎に対して、朝鮮人徴兵制度を請願している。[15]
出典
- ^ a b c 朝鮮民族独立運動秘史 & 1959年.
- ^ a b 日本に於ける反朝鮮民族運動史 & 1947年.
- ^ a b 東京朝日新聞 & 1923.9.10付号外.
- ^ 叙情日本大震災史 1924.
- ^ 叙情日本大震災史 1924, p. 224.
- ^ a b c 大正大震火災誌 & 1925年.
- ^ [大阪朝日新聞関東大震災記事集] 第14989至15018号(大正12年9月), & https://dl.ndl.go.jp/pid/1014322/1/132.
- ^ a b 現代史資料6 関東大震災と朝鮮人.
- ^ 日本に於ける反朝鮮民族運動史 & 1947年, p. 15-16.
- ^ [1]戦後日本で優遇されて勢力を拡大した「在日本朝鮮人連盟」 預金封鎖をされない特例措置
- ^ 風の慟哭 & 1977.2.
- ^ 朝鮮人女工のうた & 1982.8.
- ^ 朝鮮民族独立運動秘史 & 1959年, p. 272.
- ^ 「[2]」官報号外
- ^ 「[3]」公文雑纂・昭和十年・第三十一巻・帝国議会六・質問答弁
- ^ [4]関東大震災映像デジタルアーカイブ『關東大震大火實況』
参考文献
- 警視庁 編『大正大震火災誌』1925年。https://dl.ndl.go.jp/pid/1748933
- 田中貢太郎, 高山辰三『叙情日本大震災史』教文社、1924年。https://dl.ndl.go.jp/pid/981861
- 坪江汕二『朝鮮民族独立運動秘史』日刊労働通信社、1959年。https://dl.ndl.go.jp/pid/3034748
- 金斗鎔『日本に於ける反朝鮮民族運動史』郷土書房、1947年。https://dl.ndl.go.jp/pid/10263915
- 金斗鎔『朝鮮近代社会史話』郷土書房、1948年。https://dl.ndl.go.jp/pid/2994550
- 姜徳相、琴秉洞 編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年10月25日。
- 金賛汀『風の慟哭 : 在日朝鮮人女工の生活と歴史』田畑書店、1977年2月。
- 金賛汀『朝鮮人女工のうた (岩波新書)』岩波書店、1982年8月。
- 樋口雄一『協和会 ( 天皇制論叢 5 )』社会評論社、1986年7月。
関連項目
- 相愛会のページへのリンク