百年は生きられる時間花百度
作 者 |
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季 語 |
花 |
季 節 |
春 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
この作品は平成11年の作。当時作者は101歳の母の看護をしていた。世に長寿の記録は百歳を遥かに超えたものがあるが、一般的には百歳が人間の生きられる限度と考えていいだろう。裏返しすれば、誰でも百年は生きられるということである。花はどんなことがあろうとも時期が来れば必ず咲く、時間にしても病気をしたり苦しんだりしていても必ず積み重なっていく。 作者はこの日、毎年恒例になっている上越市高田公園での花見句会にいた。満開の花の下で母のことを思い、百年という悠久の時間を思った。そしてその後の現地での句会に出されたのがこの句だった。 この句会は作者の名乗りは最後にするので、誰の句かわからないなかで、この句に議論が集中した。「中八がたるんでいる」というのがその理由。みんなが勝手な発言をした。「生きれる」とすればいいとか、「時間」を「じかん」と読まないで「とき」と読んだらいいとか、勝手な添削論争が始まった。 黙ってそれを聞いていた作者は、突然、名乗りは最後にするというルールを破って怒り出した。「違う! これは私の句だ! 私に「ら」抜きの作品を作れというのか、流行歌みたいな句を作れというのか」 作者は、この句会の指導者であった。この発言に一同はシュンとなった。 句会のあと、この句を改めて鑑賞して、しみじみいい句だなと思うようになった。家に百歳に達した母のある作者ならではの実感であろう。中八にしても作者は発表するまで拘ったのであろうが、どうしても言わねばならないことは言い切るという姿勢、その中八がゆったりとした時の流れを表しているという意図しない効果を生み出していると理解するまでには、そう時間がかからなかった。 |
評 者 |
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備 考 |
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