異説・その他
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:57 UTC 版)
示現流の宗家高弟の系譜を記した久保之英の「示現流聞書喫緊録略系図」では、「本藩人物誌」で兄とする重治を重位の実父だとしている。同書では当時、東郷に改姓していた重治の次男であった重位が、嫡家瀬戸口氏に嗣子なき故に同家の養子になったという。なお、この説の真偽は不明。 重治の生没年については不明だが、「国分郷土誌 資料編」の「慶長10年 国分衆中」や慶長15年の久満崎社の資料には東郷重治と思われる人物が出る。また、「鹿児島県史料集 旧記雑録後編4」の慶長18年の資料に「東郷安房入道休伴 高401石7斗8舛7合 門屋敷14 」とある。しかし、元和6年の石高についての資料では「東郷十左衛門(重恒と思われる)」が登場するので、慶長18年から元和6年の間に死去した可能性が高い。 「示現流聞書喫緊録附録系図」で文禄年間に400石もらったのは重恒(東郷重位の甥。著作いわく重位の兄)であるとしているが、「鹿児島県史料集 旧記雑録」や「国分諸古記」を見れば、慶長以降も重治が十左衛門家当主であることがわかる。 東郷十左衛門家については川崎大十著の「さつまの姓氏」や「東郷町史」に掲載されている。しかし同書では東郷重治を、日置流弓術初代師範の東郷重尚と混同してしまっている。東郷重尚は加治木衆から鹿児島衆になった人だから、国分衆の瀬戸口流東郷氏とは関係は薄く、当然同一人物ではない。なお、「さつまの姓氏」での日置流初代師範の東郷重尚の系図は本当は「重張流」の方である。
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