甲斐国志の編纂過程とは? わかりやすく解説

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甲斐国志の編纂過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 05:25 UTC 版)

甲斐国志」の記事における「甲斐国志の編纂過程」の解説

都留郡に関して嶋基進が主任務め嶋家の私塾である朋来園が編纂所となり、塾生らが編纂員として参加している。文化3年1806年)には史料調査項目策定され々の名主長百姓通達され朱印状や諸系図寺社縁起名所古跡伝承など調査され々の村明細帳絵図類社寺由緒書など古文書借覧行われている。『編脩地誌備用典籍解題』(後述)に拠れば甲斐国志』は現存する古物現地訪問して直接調査して編纂したと言われ今日文化財所蔵調査に近いことが行われていたと考えられている。 文化4年1807年8月には定能が西丸小性組番頭転身したため、国中三郡に関して西花輪内藤清右衛門宅に編纂所を移転して事業継続される。定能の江戸赴任のため草稿甲斐江戸間郵送する手間発生したため編纂遅延するが、大学頭林述斎編纂急がせたため、加速されている。 文化11年1814年11月完成し、定能の序文加え首巻本文118巻、附録5巻124巻にまとめられる翌月には71巻に装幀されて幕府献進され、将軍家の上覧の後に昌平坂学問所賦与された。

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