甲南ゴルフ倶楽部の設立
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「横屋ゴルフ・アソシエーション」の記事における「甲南ゴルフ倶楽部の設立」の解説
もっとも、横屋のゴルフコース跡を石油会社は放置したため、福井たちは従来通りゴルフを行っていたという。福井は生家近くの青木字西浜(現在の青木二丁目)に日本初のゴルフ室内練習場を設け(自宅クラブハウスに作ったという記述もある)、また道具の製造販売や修理も行っていた。 1922年(大正11年)には、南郷三郎や伊藤長蔵らが土地所有者に働きかけて正式にコースを再建して甲南ゴルフ倶楽部を設立した。コース再建後、サンドグリーンを芝グリーンにするなどの改修が加えられたとされ、1930年代の『全国ゴルフ場案内』によれば、6ホール・1178ヤード・パー20となっている。甲南ゴルフ倶楽部は設立時に越道政吉をプロとして迎えており、越道は日本で2人目のプロゴルファーとされる。越道は福井覚治と同郷(青木出身)で2~3歳下の幼馴染であり、福井の室内練習場や工房で「弟子」として仕事をしていた。 甲南ゴルフ倶楽部は1924年(大正13年)に日本ゴルフ協会(JGA)の設立に加わった7つの倶楽部の一つであった。甲南ゴルフ倶楽部からは、戸田藤一郎が出ている。 1934年(昭和9年)、室戸台風に伴って発生した「関西風水害」で、コースは大きな被害を受けた。1937年(昭和12年)・1938年(昭和13年)の『全国ゴルフ場案内』(ゴルフドム社)には甲南ゴルフ倶楽部の掲載があり、南郷三郎が代表を務め、福井俊一・福井正一がプロとして在籍している。『日本のゴルフ100年』によれば、さきの関西風水害の被害に続く形で1938年(昭和13年)に阪神大水害(表六甲山津波)による壊滅的な打撃を受け、ゴルフ場としての命脈を断たれたという。 21世紀の現在、横屋コースの跡地には神戸市立魚崎中学校や瀬戸公園グラウンドなどが所在する。
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