由来や歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 05:25 UTC 版)
作曲者不詳で、江戸時代から伝わっており、1992年12月2日には牛深市(2021年現在の天草市)無形民俗文化財に指定された。 牛深港は古くから天然の良港として発展した。大阪から鹿児島を往復する海運船の風待ち港としても利用され、ハイヤ節は風待ちの間の娯楽であった。 当時熊本を中心に唄われていた「二上がり甚句」を奄美から伝わった「六調」という南国特有の熱狂的なリズムで味付けをし、独特の節回しを持つ「牛深ハイヤ節」が誕生したと言われる[要出典]。 ハイヤという名前の由来は、元々"南風"のことを九州で"ハエの風"と呼んでいることが起因で、ハエがハエヤになり、やがてハイヤへと訛っていったと言われている[要出典]。 北側を山に、残り三方を海に囲まれた牛深は、南風が吹くと雨が降りやすく、海が荒れて出航できなくなるため、そんな風待ちの酒盛りの席で良く唄われていた[要出典]。 江戸時代、帆船の舵取りは一晩中唄うことが義務付けられていたため、船頭たちにとって、シケの時の酒盛りは、唄を仕入れる格好の場となっていた[要出典]。 風待ちやシケ待ちのため牛深に寄港した船乗りたちは、陽気な「ハイヤ節」を肴に酒宴を開き、その思い出を「牛深三度行きゃ三度裸、鍋釜売っても酒盛りゃしてこい」と唄い、次の港へと伝えていった。それが、全国各地40ヶ所以上の地方へ伝わり、その土地土地の民謡にハイヤを取り入れた事から「牛深ハイヤ節」は全国40ヶ所のハイヤ系民謡のルーツと言われている[要出典]。
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